佐賀城のこと

佐賀の群像

鍋島 直正【1814年~1871年】

鍋島 直正 17歳で佐賀10代藩主となり、窮乏した財政を再建するため、藩政改革を行いました。その改革の中で人材の登用を図り、医学校、海軍学校の創設、弘道館の拡張と教育にも力を入れました。
 また、西洋医学を積極的に取り入れ、天然痘の予防のために当時あまり行われていなかった種痘を嫡子淳一郎(直大)に接種し、藩内に広めていきました。
 さらに長崎警備の強化に力を注ぎ砲台を築造し、築地、多布施に反射炉を築いて大砲を鋳造したほか、洋式の軍隊を組織し蒸気船を建造するなど近代化を進め、戊辰戦争ではアームストロング砲を用いて、新政府軍を勝利に導きました。
 維新後は、新政府の議定、蝦夷開拓督務などを歴任し、大納言に任ぜられました。

佐野 常民【1822年~1902年】

佐野 常民 13歳で弘道館に入学し、その後大坂の緒方洪奄、江戸の伊東玄朴などから医学・蘭学を学びました。
 佐賀藩の精煉方の主任となり、蒸気機関の開発と造船技術の伝習に励み、海軍を創設しました。パリ、ウィーンの博覧会に参加し、ヨーロッパの「赤十字」を見聞しました。明治10年の西南戦争の際、負傷者を救護する組織活動の必要性を痛感し、「博愛社」を創立、のちに「日本赤十字社」と改称し初代社長となりました。また、竜池会(後の日本美術協会)を設立し、美術の発展にも貢献しました。
 大蔵卿、元老院副議長、枢密顧問官、農商務大臣などを歴任しました。

島 義勇【1822年~1874年】

島 義勇 9歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加、水戸学派の藤田東湖と親交を結びました。
 藩主直正の外小姓となり、安政3年に直正の命により1年半ほど蝦夷・樺太を探検し、直正が初代蝦夷開拓督務となると、主席判官に任命されました。
 北海道の開拓を行い、札幌市街地建設に力を注ぎ、今の札幌の基礎を築きました。札幌大通公園は、その当時の都市計画の姿がそのまま残っています。また、札幌市役所のロビーには、その銅像があります。その後、侍従や秋田県令を務めました。
 明治7年に帰郷し、憂国党の首領におされ、征韓党の江藤新平とともに佐賀の乱(佐賀戦争)で敗れました。

副島 種臣【1828年~1905年】

副島 種臣 6歳で弘道館に入学し、その後、兄、枝吉神陽の主催する義祭同盟に参加しました。
 弘道館の国学教授を務め、大隈重信とともに長崎で英学を学びました。
 明治政府では、参議、外務卿として樺太領有問題でロシアと交渉、ペルー国船のマリア・ルス号事件では清国人苦力(クーリー)の解放を実現しました。また、「日清修好条規」の批准などにも取り組みましたが、明治6年の政変で参議を辞職しました。
 その後、天皇の侍講、枢密顧問官、内務大臣を歴任しました。書道家としても有名です。

大木 喬任【1832年~1899年】

大木 喬任 15歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加しました。
江藤新平とともに東京遷都を建白し、東京府知事となりました。維新政府では、民部大輔、民部卿をへて初代文部卿となり、明治5年に「学制」を領布して明治教育の大綱を作りました。また、司法卿としても、各種の法律の制定などを行い法体制の確立に貢献しました。
 その後、元老院議長、枢密院議長、司法大臣、文部大臣などを歴任しました。

江藤 新平【1834年~1874年】

江藤 新平 12歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加し、「図海策」を書き開国論を唱えました。
 脱藩して国事に奔走し、大木喬任とともに江戸遷都を建白しました。維新政府では制度改革文部大輔、左院副議長から初代司法卿となり「司法職務定制」等を制定しました。ほかにも、刑法や民法の編纂に取り組み、司法独立の基礎を作りました。
 その後、参議になりましたが、明治6年の政変で辞職し翌年に帰郷、征韓党の党首におされ、憂国党の島義勇とともに佐賀の乱(佐賀戦争)で敗れました。

大隈 重信【1838年~1922年】

大隈 重信 7歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加しました。
副島種臣とともに長崎で英学を学びました。
 維新政府では、明治元年にキリスト教徒処分問題で外交交渉に取り組むなど、参議、大蔵卿として活躍しましたが、明治14年の政変で辞職しました。翌15年には立憲改進党を組織し、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。
 明治21年に外務大臣として「条約改正」に取り組みましたが、刺客に襲われ右足を失いました。明治31年には、板垣退助とともに憲政党を結成し、日本最初の政党内閣を組織し、大正3年には再び総理大臣に任ぜられました。