佐賀城のこと

人物名鑑

あ行

天野 為之(あまの ためゆき)

学者・教育者:安政6(1859)~昭和13(1938)

多方面で活躍した経済学者
唐津藩医天野松庵の長男として江戸で生まれる。東京大学に進み経済学を学ぶ。卒業と同時に東京専門学校(のちの早稲田大学)の専任講師となり、大正6(1917)年学長で辞任するまで、同大の教育と経営に力を注いだ。一方、1890年には立憲改進党の候補として衆議院議員に佐賀県から当選。他方、『東洋経済新報』の主宰(しゅさい)、早稲田実業学校の創設など多方面に活躍した。著作に「経済原論」などがある。

池田 陽一(いけだ よういち)

蘭学者・医者・技術者:安政5(1858)~昭和12(1937)

最先端の癌(がん)治療
佐賀藩医池田陽雲の子として生まれる。明治7(1874)年東京外国語学校に入学し、ドイツ語を専攻。その後、東大医学部に進み、卒業後、福岡医学校教諭兼産婦人科部長を務め、1896年より佐賀の水ヶ江に開業。明治40(1907)年佐賀県医師会が設立されると医師会長となり、大正8(1919)年まで務めた。大正3(1914)年にフランスよりラジウムを購入し、がん治療をおこなったことは有名である。

石井 忠亮(いしい ただあきら)

藩役人・政治・官吏:天保11(1840)~明治34(1901)

日本の電話創始者
佐賀城下に生まれ、15歳から蘭学を学ぶ。佐賀藩三重津海軍所の教官を務め、戊辰戦争では政府軍艦「陽春丸」の艦長として箱館(はこだて)戦争で活躍した。明治5(1872)年工部省に入り主に電信の分野を歩み、1875年ロシアでの万国電信会議に出席。欧米各地を訪ね、電信の調査を行う。1880年に電信局長に就任。電話創設の必要性を強調、日本の電話創設に尽くす。

石井 亮一(いしい りょういち)

学者・教育者:慶応3(1867)~昭和12(1937)

知的障害児教育に生涯を捧げる
佐賀藩医石井雄左衛門の子。築地立教学校(現、立教大学)在学中に洗礼を受け、卒業後立教女学院の教頭となる。明治24(1891)年、濃尾地震の際、知的障害児を含む孤児を引き取り、孤女学院を創設。教育法を研究するため渡米し、各地の施設を視察した。帰国後、日本最初の知的障害児施設「滝乃川学園」を設立、妻筆子(ふでこ)とともに教育と福祉と医療の協力による総合的な学園運営を行った。

石田 英一(いしだ えいいち)

芸術家・文学・著述者:明治9(1876)~昭和35(1960)

金工に新しい風
旧佐賀藩士吉田熊六の長男として東京に生まれる。少年期を佐賀で過ごす。東京美術学校鍛金(たんきん)科で学び、卒業後は助手を経て大正14(1925)年同校教授となり、フランスに渡り、西欧工芸を学ぶ。帰国後、帝展の審査員を努めながら出品を続けた。人物、動物などの鍛造に優れ、高い技術が必要とされる鍛金において、評価を受ける。

石丸 安世(いしまる やすよ)

藩役人・政治・官吏:天保5(1834)~明治35(1902)

日本電信の祖
佐賀郡本庄村に生まれる。20歳のとき、選ばれて幕府の海軍伝習所で学ぶ。幕末から明治にかけてイギリスに渡り、佐賀藩がパリ万博に参加した際には馬渡八郎と共に現地での準備を行い、各国の産業などを視察して帰国。明治4(1871)年工部省に入り、電信頭となり、国内電信網の重要幹線であった東京ー長崎線、東京ー青森線の竣工(しゅんこう)に尽力した。のち、元老院議官に任命された。高取伊好、志田林三郎、中野初子らは石丸の門下生である。

伊丹 弥太郎(いたみ やたろう)

実業家・起業家:慶応2(1866)~昭和8(1933)

電力事業に尽力した地方財閥
佐賀城下本庄に生まれる。明治15(1882)年、栄(さかえ)銀行が設立され、一族で経営を行なう。1906年、中野致明(なかのちめい)らと広滝水力電気会社を設立。九州電灯への改組に伴い専務取締役に就任。その後、九州電灯鉄道、東邦電力と拡大発展していき、それぞれで社長を務め、永年電力事業に尽くした。大正7(1918)年貴族院議員にも選出された。美しい紅葉で知られる国の名勝・九年庵は、彼の別邸であった。

伊東 玄朴(いとう げんぼく)

蘭学者・医者・技術者:寛政12(1800)~明治4(1871)

種痘(しゅとう)普及に尽力
神埼郡仁比山村に生まれる。若くして医学に志して漢方を学び、文政5(1822)年佐賀の蘭方医島本良順に学ぶ。翌年長崎に行き蘭学を、ついでシーボルトについて医学を学んだ。文政11(1828)年江戸で開業。のち蘭学塾「象先堂(しょうせんどう)」を開き、人材を育てる。弘化3(1846)年藩主鍋島直正に種痘(しゅとう)法を進言。安政5(1858)年、江戸に種痘所を開設し、のちの西洋医学所(東京大学医学部の前身)の基礎を築いた。

今泉今右衛門(10代)(いまいずみ いまえもん)

芸術家・文学・著述者:嘉永元(1848)~昭和2(1927)

色鍋島の伝統を近代に継ぐ
肥前有田の著名な製陶家。稲富家に生まれ、今泉家の養子となる。幕末より明治の廃藩置県までは御用赤絵屋としての9代をたすけた。ドイツから招かれていたワグネルに、絵の具や石炭窯のたき方などを習い、明治15(1882)年頃製陶会社をつくり、現在地に窯を移した。その後、会社を解散し、個人で窯を続け、現在の今右衛門窯の基礎を築いた。

江越 礼太(えごし れいた)

学者・教育者:文政10(1827)~明治25(1892)

日本初の実業教育者
小城藩士江越道順(みちより)の子として生まれる。幼いころ草場佩川(はいせん)に学び、その後、江戸で古賀茶渓(さけい)の門に入り、長崎では英語を学ぶ。帰郷後、藩校興譲館で英語を教える。明治2(1869)年には石丸安世らと共に西松浦郡山代郷で炭鉱の開発をおこなった。その後、有田白川小学校の教師となり、明治14(1981)年、私財のほか深川栄左衛門、副島種臣、大隈重信などから寄付を得て、日本初の実業学校、勉脩学舎(べんしゅうがくしゃ:佐賀県立有田工業高等学校の前身)を建て、陶磁器産業の実習教育に力を注いだ。記念碑が有田陶山神社にある。

江崎 利一(えざき りいち)

実業家・起業家:明治15(1882)~昭和55(1980)

「1粒300m」江崎グリコ会社創立者。
江崎グリコ株式会社創業者。蓮池出身。家業である薬種(やくしゅ)業を手伝いながら、さまざまな仕事を行なう。カキの煮汁にヒントを得てグリコーゲンに着目、それをキャラメルとして売り出した。大正10(1921)年合名会社江崎商店を設立、「1粒300メートル」のキャッチフレーズとおまけ付きという新しい商法で、成長した。

枝吉 神陽(えだよし しんよう)

学者・教育者:文政5(1822)~文久2(1862)

義祭同盟(ぎさいどうめい)をおこす
佐賀郡今津(西与賀町)に生まれる。父は弘道館教授枝吉南濠(なんごう)、副島種臣の兄。はじめ父の教えを受け、江戸に出て昌平黌に学ぶ。帰藩後は弘道館で国学を教える。嘉永3(1850)年義祭同盟を作り、尊王論を説き、江藤新平、大木喬任、大隈重信らの人材に影響を与えた。1858年、弟種臣を京都に遣(つか)わし、公家に朝廷の権限回復を説いたが、実らなかった。

江藤 新平(えとう しんぺい)

藩役人・政治・官吏:天保5(1834)~明治7(1874)

司法権の独立を実現した初代司法卿
佐賀城下八戸村に生れる。16歳で弘道館に入学。枝吉神陽(えだよししんよう)について学び、尊攘(そんじょう)派に傾倒していった。明治政府では、文部大輔、左院副議長から明治5(1872)年 初代司法卿となり、司法権の独立、警察制度の統一に尽くす。翌年参議となるが、いわゆる征韓論で敗れて辞表を提出。帰郷後、不平士族に推されて挙兵したが、政府軍の前に敗れた。

大木 喬任(おおき たかとう)

藩役人・政治・官吏:天保3(1832)~明治32(1899)

近代教育の基礎を築いた初代文部卿
佐賀城下南堀端に生まれる。弘道館に学ぶ。明治維新においては、江藤新平と連名で江戸遷都を岩倉具視に建議する。明治政府では東京府知事から民部卿(きょう)、そして初代文部卿となり、明治5(1872)年に学制を発布させた。翌年には参議となり、江藤新平の後任として司法卿を兼ねる。士族反乱では現地に行き、事件の処理にあたった。のち、元老院(げんろういん)議長なども務めた。

大隈 重信(おおくま しげのぶ)

藩役人・政治・官吏:天保9(1838)~大正11(1922)

早稲田大学の創立者
佐賀城下会所小路に生れる。弘道館、蘭学寮で学んだ。英学塾設立を藩に建白し、長崎に蕃学稽古所(のち致遠館)がつくられ、フルベッキに学ぶ。明治政府では参議、大蔵卿などを務める。明治14年の政変で辞職し、翌年立憲改進党を組織した。また、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立して人材を育成した。明治31(1898)年と大正3(1914)年に内閣を組織して2度にわたり総理大臣となっている。

小笠原 長生(おがさわら ながなり)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):慶応3(1867)~昭和33(1958)

昭和天皇の教育係
老中小笠原長行の長子として江戸の唐津藩邸に生まれる。学習院から海軍兵学校、海軍大学校にすすむ。日清、日露戦争に従軍、東郷平八郎や乃木希典(まれすけ)と交わる。軍務のほか学習院御用掛となり、東宮(とうぐう)御学問所の設置にあたり、7年間、昭和天皇の教育にあたる。書や文筆にもすぐれ、数多くの著述や書を残している。

小笠原 長行(おがさわら ながみち)

藩役人・政治・官吏:文政5(1822)~明治24(1891)

第2次幕長戦争を指揮した幕府老中
安政4(1857)年唐津藩主小笠原長国の養子となり、藩政に尽くし、名君として領民から慕われた。幕府に認められ、外国御用掛、老中に昇進し、生麦事件の処理、第2次幕長戦争における九州の幕府軍の総指揮、兵庫開港に努力した。明治元(1868)年、戊辰戦争に参加し会津、箱館で戦った。その後は、表舞台から身を引き、余生を送った。

岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ)

芸術家・文学・著述者:明治2(1869)~昭和19(1944)

最初の文化勲章受賞者
佐賀城下八幡小路に生まれる。幼年で上京、鍋島直大(なおひろ)邸で百武兼行(かねゆき)の絵に接し、洋画に関心を持ったといわれる。黒田清輝らに外光派の技法をまなび、明治29(1896)年白馬会の創立に参加。翌年、東京美術学校の助教授となり、フランスに留学して、ラファエル・コランに師事(しじ)。帰国後、教授となる。第1回文展(ぶんてん)から審査員を務め、昭和12(1937)年には第1回文化勲章(ぶんかくんしょう)を受けた。

奥村 五百子(おくむら いおこ)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):弘化2(1845)~明治40(1907)

愛国婦人会の創設者
唐津中町高徳寺に生まれる。父や兄の討幕運動を助け、男装で長州藩へ使いしたことは有名。明治になり、郷土の産業発展に尽力する一方、布教のため朝鮮に渡り、幼稚園や実業学校を創設した。北清事変の体験から軍人遺族の救済の必要性を痛感し、近衛篤麿(このえあつまろ)や華族婦人の援助のもとに明治34(1901)年に愛国婦人会を創設した。日露戦争での慰問活動など、その活動によって会員は数十万人に及んだ。

織田萬(おだ よろず)

学者・教育者:明治元(1868)~昭和20(1945)

国際司法裁判所判事を務める
杵島郡須古村に生まれる。帝国大学法科卒業後、明治29(1896)年より文部省留学生としてフランス・ドイツで学ぶ。1899年、京都帝国大学創立と同時に教授となり、1900年に同大学学長となった。京都法政学校(立命館大学の前身)の創設にたずさわり、のちに名誉総長となる。大正10(1921)年から昭和5(1930)年までハーグ(オランダ)の常設国際司法裁判所判事を務めた。

か行

金武 良哲(かなたけ りょうてつ)

蘭学者・医者・技術者:文化8(1811)~明治17(1884)

好生館の指南(しなん)役
元須古の家臣で佐賀藩士となった。天保元(1830)年頃、島本良順のもとで、医学と蘭学を学ぶ。のち、江戸に遊学し、伊東玄朴の象先堂(しょうせんどう)で学んだ。帰藩後、蘭方医として開業した。その後藩に出仕し、安政5(1858)年に藩医学校が好生館と改称されると、良哲は指南方となり、慶応3(1867)年には教導方となった。語学、理数の才能にも恵まれ、医学書のほか物理、数学の訳著書がある。

鎌田 景弼(かまた かげすけ)

藩役人・政治・官吏:天保13(1842)~明治21(1888)

初代佐賀県令
熊本県士族。明治16(1883)年初代佐賀県令として赴任、在任5年間で多くの治績を残す。県庁建設、鉄道誘致(ゆうち)、諸富、神埼、久保田の直線道路なども県令案といわれ、新しい佐賀県の基礎を築いた。明治21(1888)年、在職中に病気で死去した。

川崎 道民(かわさき どうみん)

蘭学者・医者・技術者:不詳(不詳)~明治14(1881)

佐賀に写真・新聞をもたらす
須古鍋島家の医者川崎家の養子となり、蘭医として幕府に仕えた。幕命によって万延元(1860)年から渡米、渡仏。フランスで写真術を習得し、帰国後、当時の藩主直大(なおひろ)らを撮影したといわれる。また、新聞事業の有用性を感じ、明治5(1872)年、同志と新聞社をつくっている。

川原 茂輔(かわはら もすけ)

藩役人・政治・官吏:安政5(1858)~昭和4(1929)

衆議院議長をつとめた政友会リーダー
伊万里の大河内村岩谷に生まれる。多久の草場船山(せんざん)の教えをうけ、のち東京に出て自由民権運動に触れる。若くして政界に進出し、県会議員、県会議長を経て衆議院議員に当選。以後、10度にわたって当選し、国政に尽くした。立憲政友会に所属し、党分裂に際しては政友本党を組織した。のち衆議院議長を務めている。

蒲原 有明 (かんばら ありあけ)

芸術家・文学・著述者:明治9(1876)~昭和27(1952)

近代象徴詩の代表者
東京生まれ。明治27(1894)年、友人らと雑誌を刊行し、新体詩を書き始めた。翌年、父の郷里佐賀県須古村におもむく。その後、唐津、伊万里、有田、大川内などを旅行。紀行文「松浦あがた」「有田皿山にて」などを作る。象徴(しょうちょう)主義的な詩法で、わが国近代詩最高の詩人といわれた。『有明集』など4冊のすぐれた詩集を残している。

草場 船山(くさば せんざん)

学者・教育者:文政2(1819)~明治20(1887)

親子2代の教育者
草場佩川(はいせん)の長男として多久に生まれる。幼い時から学問にすぐれ、19歳で東原庠舎(とうげんしょうしゃ)の教官となった。その後、江戸昌平黌(しょうへいこう)に学び、安政2(1855)年には京都に出て、梁川星厳(やながわせいがん)らの勤王(きんのう)の志士たちと交わった。晩年は、伊万里に私塾啓蒙塾(けいもうじゅく、後の伊万里小学校)を建てた。

草場 佩川(くさば はいせん)

学者・教育者:天明7(1787)~慶応3(1867)

多くの芸術に長けた教育者
多久邑家臣の子として生まれる。幼い頃から学問を好み、のち江戸に出て古賀精里(せいり)に入門。文化8(1811)年には精里とともに対馬国に赴き、朝鮮通信使の応接に加わった。帰国後は東原庠舎(とうげんしょうしゃ)で教え、のち佐賀本藩に招かれて、鍋島直大(なおひろ)の侍講(じこう)を務める。安政2(1855)年には幕府に招かれたが辞退。詩や絵画などにも優れ、著作に『津島日記』などがある。

久米 邦武(くめ くにたけ)

学者・教育者:天保10(1839)~昭和6(1931)

日本歴史学の基礎をつくる
藩校弘道館に、その後江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学んだ。明治維新とともに新政府に仕え、明治4(1871)年岩倉具視に従い欧米を視察し、帰国後『米欧回覧実記』を著した。1888年から帝国大学文科大学(現:東京大学)教授を勤め、特に日本古代史の科学的研究に業績を残したが、論文「神道は祭天の古俗」により退職に追い込まれた。その後は早稲田大学で講義しながら著述に専念した。

久米 桂一郎(くめ けいいちろう)

芸術家・文学・著述者:慶応2(1866)~昭和9(1934)

白馬会創設
佐賀城下八幡小路に久米邦武の長男として生まれる。9歳で上京、15歳で画家を志す。20歳でフランスに渡り、ラファエル・コランのもとで本格的に洋画を始めた。コランのもとで黒田清輝と知り合い、その後、2人はたえず行動を共にした。帰国後、2人は白馬会を創立、またそろって東京美術学校の教授に就任した。東京品川区に久米美術館がある。

黒田 チカ(くろだ ちか)

蘭学者・医者・技術者:明治17(1884)~昭和43(1968)

女性理学博士の誕生
佐賀郡松原町に生まれる。大正2(1913)年、わが国初の帝国大学女子学生(3人)として、東北帝国大学化学科に入学。東京女子高等師範学校の教授をする傍ら理化学研究所での研究を開始。昭和4(1929)年植物「紅(べに)」の色素の研究で、女性では二番目の理学博士になった。(化学分野では初めて)。オックスフォード大学、お茶の水女子大学などで研究して、教壇にも立った。

小出 千之助(こいで せんのすけ)

学者・教育者:天保3(1832)~明治元(1868)

蘭学から英学へ 
弘道館に学び、のち蘭学寮に移った。万延元(1860)年わが国最初の遣外使節団の一員として渡米し、欧州を回って帰国した。帰国後、英学の必要性を説き、長崎に留学して、慶応元(1865)年蕃学稽古所(ばんがくけいこしょ、のち致遠館)が設立されると同時に教導役となった。また、佐賀藩がパリ万博に参加すると、使節として渡欧した。佐賀藩随一(ずいいち)の西洋通であったが、1868年、落馬事故により、37歳の若さで死去した。

古賀 穀堂(こが こくどう)

藩役人・政治・官吏:安永6(1777)~天保7(1836)

藩主直正の教育係
「寛政の三博士」の一人古賀精里(せいり)の長男として、佐賀城下西精に生まれる。江戸に出て学問を磨き、帰国後、弘道館の教授となるとともに直正の教育係となった。そして直正が藩主になると、相談役として藩政を支えた。彼が著した「済急封事(さいきゅうふうじ)」は幕末の佐賀藩の改革を方向付けたといわれる。

古賀 善兵衛(初代)(こが ぜんべえ)

実業家・起業家:弘化元(1844)~明治40(1907)

古賀銀行の基礎をつくる
佐賀の呉服商の家に生まれる。若くして単身四国、中国、関東地方をまわって織物の直接仕入れを行い、財産を築いた。その財産を元手に明治18(1885)年に古賀銀行(明治31年に佐賀銀行と改称)を設立。行員の不正行為による取付騒ぎで一時は苦境におちいるも、日露戦争期に自身の経営する炭鉱が好調となり、その利益を元に銀行の経営を立て直した。

古賀 善兵衛(二代目)(こが ぜんべえ)

実業家・起業家:明治14(1881)~昭和18(1943)

古賀銀行、九州のビック5へ
明治40(1907)年、初代古賀善兵衛から家督を継ぐ。先代に続き経営する炭鉱の発展にめぐまれ資産を増やし、佐賀銀行も飛躍的に発展することになった。柳川、神埼、白山などに銀行の支店を設置し経営を拡大し、大正2(1913)年に銀行名をふたたび古賀銀行と改称した。資本金を県下最大の150万円にまで増資し、九州五大銀行の一つといわれるまでに躍進させた。

さ行

相良 知安(さがら ちあん)

蘭学者・医者・技術者:天保7(1836)~明治39(1906)

近代医学の基礎を築く
佐賀藩の藩医柳庵長美の子として佐賀城下八戸町に生まれる。弘道館で学んだのち江戸、長崎に遊学。ボードインについて医学を修得し、慶応4(1868)年藩主鍋島直正の侍医となる。明治2(1869)年医学校取調御用掛を命じられ、ドイツ医学の採用に尽力する。医学校(のちの東大医学部)校長、文部省医務局長兼築造局長など歴任した。晩年は易者として生活をおくった。

佐久間 退三(さくま たいぞう)

藩役人・政治・官吏:嘉永元(1848)~昭和8(1933)

唐津の発展に尽くす
唐津藩士佐久間家の長子として生まれる。戊辰戦争では、上野彰義隊(しょうぎたい)に加わり、敗れて東北・函館に転戦する。降服したのち、江戸でボアソナードにフランス語を学ぶ。帰国後、湊村長、さらに唐津町長を務める。その後唐津鉄道会社創設また唐津馬車鉄道会社の設立に尽力した。

佐野 常民(さの つねたみ)

藩役人・政治・官吏:文政5(1822)~明治35(1902)

日本赤十字社の創設者
佐賀郡早津江村に生まれる。弘道館で学んだのち、京都、大坂、江戸に遊学。嘉永6(1853)年精煉方主任となり大砲や艦船製造に当たった。慶応3(1867)年パリ万博のため渡欧し、帰国後は新政府で海軍の創設に尽力し、大蔵卿、元老院議長などをつとめる。明治10(1877)年には博愛社を創設して日本赤十字社の基礎をつくった。また龍池会(りゅうちかい、のちの日本美術協会)を起こし、美術工芸の発展に貢献した。

志田 林三郎(しだ りんざぶろう)

蘭学者・医者・技術者:安政2(1855)~明治25(1892)

日本電気工学の草分け
小城郡多久邑別府村に生まれる。東原庠舎(とうげんしょうしゃ)に入り儒学を修め、維新後、工学寮(現在の東大工学部)に入り電気学を学ぶ。優秀な成績で卒業し工学博士となる。翌年、英国留学し、ケルビンに師事して在学中多くの賞を受けた。帰国後、電信局に勤務するかたわら工科大学教授を兼務し、さらに逓信(ていしん)省工務局長に就き、電信電話事業に意欲的に取り込むが、37歳の若さで死去した。

柴田 花守(しばた はなもり)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):文化6(1809)~明治23(1890)

端唄(はうた)「春雨」
小城藩士柴田礼助の子として生まれる。幼少から武富?南(いなん)らについて学ぶ。その後、神道不二教に入り、長崎で中島広足(なかしまひろたり)から神典と歌道を学ぶ。明治15(1882)年、神道実行教を創立し、その管長となる。書画・和歌にすぐれ、長崎の丸山で作った端唄「春雨」は、全国的に有名である。 

渋川 柳次郎(しぶかわ りゅうじろう)

学者・教育者:明治5(1872)~大正15(1926)

石川啄木を見いだす
杵島郡西川登村に生まれる。高等文官弁護士試験に合格し、熊本第六師団に勤務。日露戦争に出征(しゅっせい)し、陣中記録を残した。明治40(1907)年東京朝日新聞社に入社し、社会部長のとき、校正係として同社にいた石川啄木の歌を取り上げ、処女歌集「一握の砂」刊行のきっかけを作った。また、藪野椋十(やぶのむくじゅう)のペンネームで序文を寄せている。

島 義勇(しま よしたけ)

藩役人・政治・官吏:文政5(1822)~明治7(1874)

札幌の基礎を作った北海道開拓の父
佐賀城下精小路に生まれる。弘道館で枝吉神陽に学び、義祭同盟(ぎさいどうめい)に参加する。諸国に遊学し、藤田東湖(とうこ)らに学ぶ。安政年間、蝦夷(えぞ)・樺太(からふと)を視察する。明治2(1869)年鍋島直正が蝦夷開拓使長官となり、島は判官(はんがん)として北海道開拓に当たる。とくに札幌市街の建設に貢献した。その後は侍従、秋田県権令(ごんれい)を歴任。1874年、佐賀の不平士族に推されて挙兵し、敗れた。

島本 良順(しまもと りょうじゅん)

蘭学者・医者・技術者:不詳(不詳)~嘉永元(1848)

多くの蘭方医を育てる
蓮池藩の医者島本良橘の子として生まれる。長崎に出て蘭学を学び、帰国後蓮池城下で開業し、かたわら蘭学の講義をはじめた。佐賀における蘭学の先駆者である。緒方洪庵とも親交をもつなど、学識も次第に認められて、伊東玄朴、金武良哲(かなたけりょうてつ)、大庭雪斎(おおばせっさい)らの門弟が出た。天保5(1834)年医学寮ができるとその寮監(りょうかん)となり、のちに蓮池藩の侍医となった。

下村 湖人(しもむら こじん)

学者・教育者:明治17(1884)~昭和30(1955)

小説「次郎物語」
神埼郡千歳村に生まれる。佐賀中学時代に文学をはじめ、東大で夏目漱石の講義を受け、小山内(おさない)薫らと交わり、本格的な文学活動に入ったといわれる。教育者として佐賀に帰り、佐賀や唐津、鹿島の中学で教えた。晩年は、郷土出身の教育家田沢義鋪(よしはる)と協力し、社会教育に力を注いだ。その間、代表作『次郎物語』など数多くの小説や論文を発表している

正司 考祺(しょうじ こうき)

学者・教育者:寛政5(1793)~安政4(1857)

多くの著作を残した経世家
有田の商家に生まれる。幼いころより学問を好み、のち江戸に出て多くの学者らと交わった。商人としても才能を発揮し、財を成し、文政11(1828)年有田の大火では、財産を投げだして救済に当たった。また、近隣の子弟を教育し、尊敬を受けた。商人の自由な経済活動を認め、それが国を豊かにすると主張し、藩の専売に強く反対した。著作に『経済問答秘録』『家職要道』など多数がある。

小代 為重(しょうだい ためしげ)

芸術家・文学・著述者:万延元(1860)~昭和26(1951)

明治美術会、白馬会の創立メンバー
佐賀城下に佐賀藩士中野匡明の子として生まれ、のち小代家の養子となる。明治8(1875)年上京し、工部省修技校に学ぶ。1886年工部大学の造家学科で建築装飾を講義する。1889年、日本初の洋画団体である明治美術会に創立に加わり、ついで白馬会の結成に参加した。1900年渡仏。帰国後は逓信博物館で絵画を担当、その後は長く青山学院などに勤めた。

杉谷 雍助(すぎたに ようすけ)

蘭学者・医者・技術者:文政3(1820)~慶応2(1866)

反射炉、大砲作りの中心
佐賀城下に生まれる。弘道館に学び、剣術にも長けていた。長崎で蘭学を学び、続いて江戸で伊東玄朴(げんぼく)の門に入る。ここでオランダ語の大砲鋳造書を翻訳している。嘉永3(1850)年帰藩して蘭学寮の教導となり、ついで、反射炉と大砲製造に当たる。多くの失敗を重ねながらこれを完成させた。伊豆韮山の反射炉築造では、招かれて指導をしている。

副島 種臣(そえじま たねおみ)

藩役人・政治・官吏:文政11(1828)~明治38(1905)

手腕を世界に評価された外交官
佐賀城下南堀端に弘道館教授枝吉南濠(なんごう)の次男として生まれ、のち副島家を継ぐ。兄は枝吉神陽である。弘道館のち京都・長崎で学ぶ。新政府では外務卿として、マリア・ルス号事件、清国皇帝謁見(えっけん)問題で手腕を示すが、明治6年の政変で辞職した。翌年、同志らと民撰議院設立建白書を政府に提出した。一方、蒼海(そうかい)の名で、書家としても有名である。

曽禰 達蔵(そね たつぞう)

芸術家・文学・著述者:嘉永5(1852)~昭和12(1937)

民間にこだわった建築家
江戸の唐津藩邸で生まれる。明治12(1879)年工部大学校(のちの東大工学部)を辰野とともに卒業し、海軍省技師、工部大学校助教授などを務めた。三菱に入社して、丸の内のオフィス街の建築にあたる。三菱退社後は建築設計事務所を開設。日本造家学会(現日本建築学会)の創立委員の一人である。代表作に慶応義塾大学図書館、県内には三菱合資会社唐津支店(現唐津市歴史民族資料館)がある。

た行

高取 稚成(たかとり わかなり)

芸術家・文学・著述者:慶応2(1866)~昭和10(1935)

土佐派最後の画家
神埼郡松隈村に生まれる。幼少のころ、その画才が認められ、明治14(1881)年住吉の門にはいり大和絵を学び、のち土佐派の教えを受ける。その後、日本美術協会、文展などに出品。1907年出品作が明治天皇の親撰により御用品となる。大正10(1921)年から3年にわたって帝展の審査員をつとめた。また宮内省嘱託(しょくたく)をつとめ、「征東大将軍京都御出発の図」などの作品を残した。最後の純土佐派の画家として知られる。

高取 伊好(たかとり これよし)

実業家・起業家:嘉永3(1850)~昭和2(1927)

「肥前の炭鉱王」
多久家家臣鶴田氏の3男として生まれ、のち高取家の養子となる。法学者の鶴田皓(あきら)は兄。東原庠舎(とうげんしょうしゃ)に学んだ。上京して三叉塾で英語を学び、その後鉱山学、採炭学を修め、卒業後、高島炭坑に勤務。その後、県内の炭鉱の開発・経営を手がけて杵島炭坑を手に入れ、大正7(1918)年、高取鉱業株式会社を設立した。「肥前の炭鉱王」とよばれた。また、地元や社会事業に巨額の寄附を行った。

高柳 嘉一(たかやなぎ かいち)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):弘化2(1845)~大正9(1920)

嬉野茶の改良
嬉野茶の改良者。藤津郡嬉野村に生まれる。嬉野茶の改良に研究、努力して明治18(1885)年唐茶と宇治茶の折衷を創製して製茶の品質向上を図った。静岡から教師を招き、各所に製茶伝習所を開設した。さらに、子弟を中国に派遣して研究するなど、製法ならびに品質は年々向上進歩して嬉野茶の名声はあがった。

武富 時敏(たけどみ ときとし)

藩役人・政治・官吏:安政2(1855)~昭和13(1938)

永年にわたり政界で活躍
佐賀藩士の家に生まれる。明治になり一時東京に上京するが、ほとんど独学で学問を修める。帰郷後、佐賀戦争に加わる。明治15(1882)年九州改進党の結成に参加し、翌年県会議員に当選のち県会議長になった。また、政治運動のため『肥筑日報』を編集する。1890年国会議員となり中央政界に進出し、以後40年以上にわたり議席を維持した。大正2(1914)年第2次大隈内閣の逓信(ていしん)、大蔵両大臣を務めた。

辰野 金吾(たつの きんご)

芸術家・文学・著述者:安政元(1854)~大正8(1919)

「東京駅」を建てる
唐津城下裏坊主町の姫松家に生まれ、のち辰野家を継ぐ。藩校志道館、藩英語学校耐恒寮(たいこうりょう)で学んだのち、工部大学校(のちの東大工学部)で英人コンドルから建築学を学ぶ。イギリス留学後、明治17(1884)年工部大学校の教授となり、多くの建築家を育てた。日本銀行本店、東京駅など近代建築史上重要な作品を手がけた。県内には武雄温泉楼門(ろうもん)などがある。

田中 久重(たなか ひさしげ)

実業家・起業家:寛政11(1799)~明治14(1881)

日本のエジソン「からくり儀右衛門」
久留米に生まれる。巧妙なからくり人形を製作したことなどから「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と称された。無尽灯、懐中燭台(かいちゅうしょくだい)、万年時計などを発明・製作した。嘉永5(1852)年佐賀藩精煉方に招かれ、機関車や蒸気船の模型製作に携わる。また、鉄砲製造、蒸気船建造に尽力した。明治6(1873)年東京に出て、電信機の製造を始めた。これが芝浦製作所へと発展し、のちの東芝の基となった。

田中丸 善蔵(たなかまる ぜんぞう)

実業家・起業家:嘉永5(1852)~明治45(1912)

デパート「玉屋」の基礎を築く
小城郡江津村出身。九州の百貨店のさきがけである、デパート玉屋の基礎をつくる。父の荒物店を継ぎ、のち呉服業を始めて、京阪地方との直接取引などで商売の才能を発揮し、明治27(1894)年に佐世保に支店を置き、海軍との取り引きに当たるなどして経営を拡大、九州の商業界にその名を知られた。

谷口 清八(たにぐち せいはち)

実業家・起業家:弘化2(1845)~明治44(1911)

明治の鋳鉄(ちゅうてつ)王
佐賀市長瀬町に生まれる。谷口家は、代々佐賀藩の御用鋳物師をつとめた家柄で、直正の時代には大砲を鋳造した。明治16(1883)年、谷口鉄工場を設立。特に水道用鉄管は、外国製品に劣らない優良品を製造した。大正初期には従業員数が五百人を超えるまでに発展した。福岡市東公園内にある日蓮(にちれん)上人の銅像などを製作し、高い技術力を示した。

谷口 藍田(たにぐち らんでん)

学者・教育者:文政5(1822)~明治35(1902)

有田皿山がうんだ儒学者
有田郷外尾村に生まれる。江戸に出て、古賀?庵(とうあん)らに学ぶ。帰国して有田に塾を開いたが、焼失したため各地を遊歴、フルベッキに日本語を教えた。鹿島藩主鍋島直彬(なおよし)の招きで藩校弘文館の教授となり、あわせて大参事を務め、藩の政治に参加した。晩年には東京に藍田書院(しょいん)を開き、和漢学や道徳を教えた。

鶴田 皓(つるだ あきら)

藩役人・政治・官吏:天保6(1835)~明治21(1888)

多くの近代法制定に参加
小城郡多久町に生まれる。号は斗南。東原庠舎(とうげんしょうしゃ)で学び、その後江戸、肥後など学んだのち、大学校教授となる。明治3(1870)年政府に勤め、法律の選定に加わる。1872年、ヨーロッパに渡り、先進各国の法律を調査し帰国。刑法、治罪法その他の多くの法律の編集に参加するとともに、大審院詰(現在の検事総長)などを務めた。「炭鉱王」高取伊好(これよし)は弟。

富岡 敬明(とみおか けいめい)

藩役人・政治・官吏:文政5(1822)~明治42(1909)

佐賀だけでなく山梨、熊本でも活躍
小城藩士の家に生まれ、のち富岡家の養子となる。佐賀藩大参事、伊万里県権大参事を務めたのち山梨県権参事、熊本県権令となる。神風連(じんぷうれん)の乱の平定に当たり、翌年西南戦争が起こると、谷干城(たにたてき)らと熊本城を守った。その後、三角(みすみ)港を建設するなど産業育成を図り、県政に尽くした。のち貴族院議員となるが辞めて、晩年は山梨県で過ごした。

豊増 一女(とよます はじめ)

学者・教育者:明治4(1871)~昭和25(1950)

佐賀の女子教育に貢献
熊本藩士の長女として生まれる。佐賀に移り住み、その後上京し、東京英和女学院に学ぶ。卒業後、佐賀に帰り、婦人の知育、徳育を目的に佐賀婦人矯正会を設立し、さらに大隈重信の後援を得て、「佐賀女学校」を設立。のち、市立「佐賀成美(せいび)高等女学校」に発展した。佐賀の女子教育に活躍、貢献した人物である。

な行

中島 ヤス(なかしま やす)

学者・教育者:明治9(1876)~昭和26(1951)

旭学園創立者
旭学園創立者。佐賀郡鍋島村に生まれる。東京の女学校に進学。卒業後、小学校の教諭となる。明治30(1897)年、周囲に請われて裁縫を主とした私塾をひらく。その後学校は発展し、現在の学校法人旭学園(佐賀女子高校、佐賀女子短期大学)となった。女子教育と私学の振興発展に力を尽くした業績に対して、昭和18(1943)年藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授章している。

中冨 三郎(旧姓:久光三郎)(なかとみ さぶろう(ひさみつ さぶろう))

実業家・起業家:明治9(1876)~昭和32(1957)

「サロンパス」新発売
鳥栖市出身。明治36(1903)年久光兄弟合名会社を設立。27歳で社長に就任、「奇神丹(きしんたん)」(健胃清涼剤)「朝日万金膏(まんきんこう)」(鎮痛消炎貼付剤)などの発売で国内、海外にも販路を伸ばし事業を拡大した。また、昭和9(1934)年にはのちに国民的な貼り薬となるサロンパスを新発売し、現・久光製薬の基礎を築いた。

中野 健明(なかの たけあき)

藩役人・政治・官吏:弘化元(1844)~明治31(1898)

外交、財政、地方と幅広く活躍
佐賀藩士の子として生まれる。慶応元(1865)年長崎に遊学し、宣教師フルベッキから英語を学ぶ。維新後、上京し、明治4(1871)年より外務省に勤め、条約改正掛を命ぜられ、条約改正草案を作成した。また、岩倉遣欧使節団に加わり欧米諸国を視察している。帰国後、フランスやオランダの公使館に勤めている。その後、大蔵省、さらに長崎県知事、神奈川県知事を務めた。

中野 初子(なかの はつね)

蘭学者・医者・技術者:安政6(1859)~大正3(1914)

日本最初の電灯をともす
小城藩士中野卜斎の二男として生まれる。工部大学校に学び、明治11(1878)年同郷の志田林三郎らとわが国最初のアーク灯を点灯した。明治19(1886)年帝国大学工科大学助教授となる。米国に大学留学し、米国の学位を得た。帰国後、東京帝大教授で30年以上にわたって電気工学を教え、わが国電気工業の発展に貢献した。

中林 梧竹(なかばやし ごちく)

芸術家・文学・著述者:文政10(1827)~大正2(1913)

「明治三筆(さんぴつ)」のひとり
小城町新小路に生まれる。若くして江戸に出て、山内香雪(やまのうちこうせつ)らに書を学ぶ。のち、明治15(1882)年清国に渡る。帰国後は銀座の伊勢幸(いせこう)洋服店に居住し、書家として本格的な精進が続けられた。晩年、三日月村に「梧竹村荘」を営み多くの書を残す。近代日本書道の基礎を築いた人物であり、「明治の三筆」の一人に数えられている。

中原 南天棒(なかはら なんてんぼう)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):天保10(1839)~大正14(1925)

30年以上の全国行脚(あんぎゃ)
臨済宗の僧。唐津城下十人町の唐津藩士、塩田家に生まれる。幼くして母を失い、唐津の近松寺に預けられた。嘉永2(1849)年平戸雄香寺で得度。明治2(1869)年より34年間、南天で作った棒を提げて全国を行脚したことから南天棒といった。宮城県瑞巌(ずいがん)寺などに住職した。全国座禅会を指導し、参禅者3000人を数え、乃木希典(まれすけ)・児玉源太郎らもいた。

中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):天保8(1837)~大正5(1916)

日本海軍の育成に尽力
佐賀城下蓮池に生まれる。藩校弘道館、蘭学寮で学び、長崎海軍伝習所に派遣される。卒業後は三重津海軍所の教官となった。戊辰戦争では軍艦孟春(もうしゅん)丸や朝陽丸の艦長として奮戦した。明治6(1873)年欧州を視察し、海軍がイギリス式に発展する基礎を築く。海軍中将に昇進。その後、海軍大学校長、海軍軍令部長などを務めた。

鍋島 茂義(なべしま しげよし)

藩役人・政治・官吏:寛政12(1800)~1862(文久2)

佐賀藩西洋文明輸入の先駆け
武雄28代領主。文政5(1822)年若くして佐賀本藩の請役(筆頭家老)となる。天保元(1830)年、長崎でオランダ船を見学したのをきっかけに、西洋文化の輸入・吸収に力を注いだ。家臣平山醇左衛門(じゅんざえもん)を高島秋帆(しゅうはん)に入門させ、武雄で大砲を鋳造。のち本藩の洋式砲術導入にも尽力した。また、蘭書(らんしょ)を輸入し、写真・ガラス・花火などの研究をおこなわせる。さらに、領内で日本初の種痘が行われたと伝えられている。

鍋島 直大(なべしま なおひろ)

藩役人・政治・官吏:弘化3(1846)~大正10(1921)

外交で活躍した佐賀藩最後の藩主
維新当時の佐賀藩主。幼名淳一郎。16歳で家督を継ぎ廃藩置県にいたる。戊辰戦争に藩兵を送り活躍させた。その後イギリスに8年間留学した。明治12(1879)年外務省御用掛となり翌年、特命全権イタリア公使を命ぜられた。帰国後は貴族院議員、宮中顧問官、国学院大学長などを務めた。

鍋島 直正(なべしま なおまさ)

藩役人・政治・官吏:文化11(1814)~明治4(1871)

幕末佐賀藩のリーダー
佐賀藩10代藩主。号は閑叟(かんそう)。天保元(1830)年家督を継ぐと、積極的に藩政改革をおこなった。長崎警備を重視し、軍事力の強化をはかり、わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、西洋艦船や銃砲の購入、製造に努めた。また蘭学、英学を奨励し、種痘の接種なども自らの子女に試みた。明治元(1868)年新政府で議定(ぎじょう)となり、翌年、開拓使長官、大納言となった。佐嘉神社は直正を祀ったものである。

鍋島 直彬(なべしま なおよし)

藩役人・政治・官吏:天保14(1843)~大正4(1915)

沖縄の初代県令
肥前鹿島藩主。嘉永元(1848)年6歳で家督を継ぐ。家老に原忠順(はらただゆき)を用いて藩政改革を行う。文久3(1863)年本藩藩主直正の代理で上京し、公武合体を建白した。鹿島藩知事となり、のちアメリカへ留学、帰国して侍従となる。明治12(1879)年、沖縄の初代県令となりその開発に努力した。その後元老院議官、貴族院議員を歴任。著作に『米政撮要』がある。

楢林 宗建(ならばやし そうけん)

蘭学者・医者・技術者:享和2(1802)~嘉永5(1852)

種痘(しゅとう)施行のきっかけ
長崎の蘭医で佐賀藩医を務めた楢林栄哲の子。幼年より蘭語を学び、のちシーボルトから医学と蘭語を学んだ。文政10(1827)年父を継いで佐賀藩に仕えた。嘉永2(1849)年直正の依頼もあり、牛痘苗(ぎゅうとうびょう)を輸入して、その種法を商館医モーニッケに学ぶ。そして、わが子や佐賀藩主の世子淳一郎(直大)らに接種して好結果を得た。日本における種痘の始まりである。

西川 春洞(にしかわ しゅんどう)

芸術家・文学・著述者:弘化4(1847)~大正4(1915)

あらゆる書に通じた近代書家
唐津藩医西川家に生まれる。父に従って江戸藩邸で、医術を修めるかたわら書道や漢学を学ぶ。幕末には尊皇攘夷をとなえた。明治初め、一時大蔵省に出仕したが、まもなく辞職。書に専念して、草書・隷書・篆書の各書をよくし、門弟2000人に及んだ。晩年の書風はほぼ中国の趙子昻(ちょうすごう、元時代随一の書家)に匹敵するといわれた。

納富 介次郎(のうとみ かいじろう)

芸術家・文学・著述者:弘化元(1844)~大正7(1918)

工芸教育の発展に尽くす
小城藩士柴田花守の次男。のち納富家の養子となる。絵画に秀で、初め父に日本画を、長崎で南画、横浜で油絵を学ぶ。明治6(1873)年ウィーン万国博覧会に審査官として渡り、各国の製陶技術を学んで帰国。東京で新しい技術を教え、1882年には小石川に江戸川製陶所を興した。石鹸、漆器(しっき)などの試作研究も行った。また石川、富山、香川、佐賀の各県に県立の工業学校を設立し、実業教育に尽くした。

野口 健造(のぐち けんぞう)

蘭学者・医者・技術者:天保12(1841)~大正5(1916)

すぐれた多くの機械を製造
佐賀城下に生まれる。明治13(1880)年医療用器械を製作し、好評を得る。その後も理化学器械その他の改良、製作に努力した。1890年、理化学機械を製作し勧興(かんこう)小学校に寄付している。翌年、電信の基礎である発電機の製作に成功、以後、無線電話の研究をとげ、1905年帝国教育会から金牌(きんぱい)を受けている。

野中 元右衛門(のなか もとえもん)

実業家・起業家:文化9(1812)~慶応3(1867)

有田焼、嬉野茶を海外に
佐賀城下材木町の佐賀藩御用達商であった野中烏犀圓(うさいえん)本舗に生まれる。号は古水。文政10(1827)年家業を継ぎ、35歳ころから長崎で貿易に従事し、利益を上げた。佐賀城改築に献金し、士籍に加わる。また、有田焼や嬉野茶の海外販路の拡大を図るなど、実業家として名を上げた。慶応3(1867)年日本が最初に参加した2回パリ万国博覧会に佐野常民らと派遣されている。しかし、そのパリにおいて病のため死去した。

は行

波多野 敬直(はたの たかなお)

藩役人・政治・官吏:嘉永3(1850)~大正11(1922)

宮内大臣として腕をふるう
小城藩士波多野信倚の長男として生まれる。藩校興譲館に学び、のち藩命により大学南校(のち東京大学)でドイツ語を修めた。明治6(1873)年から司法省に勤務。その後、大審院判事、司法大臣を歴任する。のち貴族院議員に推薦させる。大正3(1914)年には宮内(くない)大臣となり、宮中における困難な問題に才腕を振るった。

林毅陸(はやし きろく)

学者・教育者:明治5(1872)~昭和25(1950)

わが国外交史の開拓者
東松浦郡入野村に生まれる。明治28(1895)年慶應義塾(けいおうぎじゅく)大学を卒業。その後ヨーロッパに留学し、外交史を学んで帰国。のち、母校で教えた。また、明治45(1912)年から政界に出て、衆議院議員に4回当選している。大正8(1919)年のパリ平和会議、1921年のワシントン軍縮会議に委員の1人として出席した。戦後は愛知大学学長を務めた。

久光 與市(ひさみつ よいち)

実業家・起業家:天保14(1843)~大正2(1913)

新たな販路の基礎を築く
鳥栖市出身。明治4(1871)年、久光製薬の創業者久光仁平より家業を譲り受ける。当時の屋号を「小松屋」から「久光常英堂」と改め、新しい薬の開発に力を注ぎ、健胃清涼剤「奇神丹(きしんたん)」を発売する。日清戦争の際には軍用薬として指定され業績を大いに伸ばした。この経験は配置売薬に加え今日の製薬メーカーとしての販路を築き、息子の三郎(後の中冨三郎)に将来を託した。

百武 兼行(ひゃくたけ かねゆき)

芸術家・文学・著述者:天保13(1842)~明治17(1884)

日本近代洋画の扉を開く
佐賀城下片田江の佐賀藩士百武兼貞の家に生まれる。明治4(1871)年、鍋島直大(なおひろ)に従って渡英、ロイヤル・アカデミーに日本服を着た英国婦人を出品して評判になった。明治13(1880)年から再び直大と共にイタリアに滞在し、外交官としてのかたわら、マッカリについて油画を研究した。西洋で最初に洋画を学んだ人物であり、わが国洋画界の先達(せんだつ)として高く評価されている。

深川 栄左衛門(ふかがわ えいざえもん)

実業家・起業家:天保4(1833)~明治22(1889)

有田窯業(ようぎょう)発展の功労者
深川家8代目。文久元(1861)年、家業である陶磁器製造を継ぐ。明治になり輸出品を製作して長崎出島に支店を置いた。明治8(1875)年同志と合本組織香蘭社を組織して業務を拡張、内外の博覧会等に出品し、高い評価を得た。また、フランスから製陶機械一式を購入し、有田窯業における機械導入のきっかけをつくった。一方、日本初の電気碍子(がいし、絶縁体)の開発に成功して、電気通信事業の発展に貢献した。

深川 嘉一郎(ふかがわ かいちろう)

実業家・起業家:文政12(1829)~明治34(1901)

海運・造船業 佐賀の深川
佐賀郡久保田村に生まれる。嘉永年間、醸造業に従事し、銘酒「窓乃梅」などを製造し成功をなした。明治4(1871)年、藩主より汽船神幸丸を借り受け、長崎-大阪間の航路を開き、その後深川家は、航路を海外に拡大し、また造船所をおこした。明治中頃より土地やセメント会社など多方面に事業を展開し、佐賀の深川としてその名を広く知られた。

深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ)

実業家・起業家:明治4(1871)~昭和9(1934)

深川製磁の創立者
明治4(1871)年、有田に生まれた深川忠次は、東京高等商業学校で学ぶ。明治25年のシカゴ万博に渡来、貿易振興の必要性を痛感した忠次は、帰国後1894年に世界市場を目指して製陶所を設ける。1900年のパリ万博に参加、名誉賞金牌受賞など高い評価を得ることになる。翌年、鍋島直映(なおみつ)侯爵が筆頭株主となり深川製磁は株式会社となる。昭和8(1933)年には有田町長に推され、有田焼発展に尽力した。

福田 慶四郎(ふくだ けいしろう)

実業家・起業家:慶応3(1867)~昭和20(1945)

佐賀の実業界で活躍
明治末期に佐賀セメント、佐賀軌道(きどう)会社の設立に尽力、大正2(1913)年に朝日商会を営み、中国大連まで進出。さらに佐賀水産、佐賀紡績(ぼうせき)などの多くの経営に当たる。1920年、佐賀百六銀行頭取に就任、佐賀商業会議所会頭、佐賀市会議員なども務めた。佐賀市松原町の旧福田邸は佐賀市の歴史的建物となっている。

藤山 雷太(ふじやま らいた)

実業家・起業家:元治元(1864)~昭和13(1938)

一代で藤山財閥を築いた事業の鬼
松浦郡大里村に生まれる。長崎師範学校、慶応義塾を卒業して、長崎県会議員、県会議長を務めた。のち、実業界に入って、芝浦製作所長、王子製紙会長、大日本製糖会社社長を歴任した。また東京商工会議所会頭なども務め、わが国産業、経済の発展に寄与した。息子の藤山愛一郎氏も実業家、政界人として活躍した。

古川 松根(ふるかわ まつね)

学者・教育者:文化10(1813)~明治4(1871)

藩主直正を陰で支えつづける
江戸桜田の邸に生まれる。幼い頃より鍋島直正の御相手をつとめ、直正の1歳年上で40年余りの間、その側に仕えた。学問、和歌、書にも優れており、小倉百人一首を簡単に注釈した『嵯峨(さが)のしおり』など多くの作品がある。直正の死去に際し、その葬儀をとりおこなったのち殉死した。

ま行

前山 清一郎(まえやま せいいちろう)

藩役人・政治・官吏:文政6(1823)~明治29(1896)

戊辰戦争で参謀として活躍
佐賀郡古賀村に生まれる。弘道館から江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学び、のち弘道館教授補になる。明治元(1868)年戊辰戦争では大総督府参謀(さんぼう)として活躍する。1870年佐賀藩大参事となり、翌年には兵部省に務める。1874年の佐賀戦争においては中立党を組織して政府軍とともに戦った。のち、官職から身をひき開墾農業に従事した。

真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):明治9(1876)~昭和31(1956)

陸軍「皇道派」の精神的支柱
陸軍大将。神埼郡犬童出身。日露戦争に従軍。陸軍大学卒。陸軍士官学校長、台湾軍司令官、教育総監などを務める。昭和11(1936)年の2・26事件の際にはその黒幕としてさわがれた。終戦後戦犯となったが、1947年に釈放された。のちには、所蔵本約千冊を「真崎文庫」として郷里の公民館へと寄贈している。

真崎 照郷(まさき てるさと)

実業家・起業家:嘉永4(1851)~昭和2(1927)

製麺機械第1号
佐賀郡古瀬郷に生まれる。明治7(1874)年真崎式と称する新しい測量機械を発明、測量界に大きな利便を与えた。その後、発明のために財産を投じ、8年がかりで1883年製麺(せいめん)機械を造りあげ、海外にも輸出され、また佐賀で初めての特許を得ている。その後も多くの発明で数々の賞を受け、1907年、佐賀県で初めての藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章した。

松尾 安兵衛(まつお やすべえ)

実業家・起業家:天保8(1837)~大正5(1916)

土木事業の先駆的存在
杵島郡川古村に生まれる。山口尚芳たちから土木事業の重要性を聞き、明治18(1885)年に松尾組を創業。道路改修や潅漑(かんがい)工事などの土木事業を行なうが、その後建築なども請け負いその規模を大きくしていった。翌年には金融(きんゆう)業川古合資会社設立、朝鮮にも会社を設立した。また、村議や郡議なども務め、地方自治にも功績があった。1912年には、「松尾翁功労記念碑」が村民により建立されている。

松田 正久(まつだ まさひさ)

藩役人・政治・官吏:弘化2(1845)~大正3(1914)

立憲政友会の実力者
小城郡江津村に生まれる。藩校興譲館に学び、明治2(1869)年上京して大学校(旧昌平黌)に通い、のち政府の命でフランスに留学。帰国後、県会議員に当選し、議長にもなった。1882年、九州改進党の創立に参加。1890年、佐賀県から衆議院に当選。第1次大隈内閣の大蔵大臣をはじめ歴代の内閣で文部大臣、司法大臣を歴任し、衆議院議長も務めた。

宮島 傳兵衛(みやじま でんべえ)

実業家・起業家:嘉永元(1848)~大正7(1918)

味噌・醤油製造から海運業まで
唐津城下水主(かこ)町に生まれる。宮島家は祖父の代より、水運・捕鯨などをおこなったが、7代傳兵衛は、明治15(1882)年に日用品である醤油・味噌の醸造所を開き、その後事業の中心となっていった。その後石炭部を設置し、唐津炭の海外進出に尽力し、唐津港の外国貿易にも貢献した。唐津町会議員を務める一方佐賀農工銀行に出資するなど地元の発展に尽くした。

村岡 安吉(むらおか やすきち)

実業家・起業家:明治17(1884)~昭和37(1962)

村岡総本舗創立者
小城郡小城町に生まれる。村岡羊羹総本舗創立者。明治32(1899)年本格的に羊羹販売を始め、鉄道を利用して販売網をひろげ、日清、日露戦争時には日持ちがすることから、軍からの需要は激増した。大正11(1922)年に電動及び蒸気応用の製造器を導入して量産化をおこない、小城羊羹の名を一気に広めた。この小城羊羹の名称も彼が使い始めたものである。小城羊羹協同組合長、小城商工会議所会頭なども長く務めた。

村田 保(むらた たもつ)

その他(社会功労者・軍人・宗教家など):天保13(1842)~大正14(1925)

水産事業の発展に尽力
唐津藩士浅原耕司の長男として大坂藩邸で生まれる。10歳のときに村田家を継ぐ。明治元(1868)年より政府に出仕し、主に法律関連の要職を歴任した。1890年にはその功績により貴族院議員に勅撰(ちょくせん)されている。一方で、大日本水産会を創設、さらに自ら水産講習所を設け所長となり、水産事業の発展に尽力した。また、馬術や剣術にも秀でた。

本島 藤太夫(もとしま とうだゆう)

藩役人・政治・官吏:文化8(1811)~明治21(1888)

佐賀藩軍事力近代化の中心
天保14(1843)年火術方(かじゅつかた)ができるとその一員として西洋砲術の研究に携わった。嘉永3(1850)年、藩命により江川英龍(ひでたつ)に砲台築造や大砲鋳造について相談した。帰藩後は杉谷雍助(ようすけ)らと反射炉をつくり、大砲鋳造をおこなう。また、神ノ島・伊王島の砲台築造に取り組み、完成させる。ロシア艦を見学し、海軍伝習所でも学んでいる。

本野 一郎(もとの いちろう)

藩役人・政治・官吏:文久2(1862)~大正7(1918)

明治・大正と活躍した外交官
佐賀藩士本野盛亨の子として生まれる。フランスに留学し、帰国後外務省に入り、翻訳官、公使館書記官を務める。明治29(1896)年より、ベルギー・フランス・ロシアに駐在し、1908年には全権大使として再びロシアに在勤し、日露協商を締結した。その後、寺内内閣で外務大臣を務めた。

本野 盛亨(もとの もりみち)

実業家・起業家:天保7(1836)~明治42(1909)

読売新聞社創業
佐賀藩士の子として佐賀郡久保田邑に生まれる。若くして谷口藍田(たにぐちらんでん)らに漢学を、緒方洪庵(おがたこうあん)に蘭学を学ぶ。また長崎でフルベッキに英語を学んだ。明治元(1868)年より新政府に出て、大蔵省や横浜税関長などを務めている。この間、子安峻(こやすたかし)らと庶民向け小新聞『読売新聞』を創刊し、人気を博した。のち2代目社長となった。

森永 惣吉(もりなが そうきち)

実業家・起業家:弘化2(1845)~明治43(1910)

小城羊羹(ようかん)の元祖
小城町に生まれる。京都の羊羹屋・虎屋の手代(てだい)から、その作り方を学んだことがあり、明治8(1875)年、羊羹つくりを家業と定め、研究を重ね、新しい羊羹を考案した。日清戦争で軍に納めことで、急速に生産が伸びた。小城羊羹の元祖といわれ、小城町が羊羹の町となるきっかけをつくった功労者である。

森永 太一郎(もりなが たいちろう)

実業家・起業家:慶応元(1865)~昭和12(1937)

「キャラメル王」森永製菓の創業者
西松浦郡伊万里町に生まれる。恵まれない幼少期を送り、のち横浜で陶器の卸売に従事した。明治21(1888)年、陶器販売のため米国に渡るが失敗。のち製菓法を習得して帰国、東京赤坂に製菓工場を開業した。1838年「エンゼルマーク」を商標登録。次第に業務を拡張、箱入りミルクキャラメルは大人気となる。関東大震災では商品を提供するなど罹災者を助け、熱心なクリスチャンで、引退後は伝道活動をおこなった。

や行

山口 尚芳(やまぐち ますか)

藩役人・政治・官吏:天保10(1839)~明治27(1894)

岩倉遣欧使節団副使
武雄に生まれる。領主鍋島茂義(しげよし)の命で長崎に遊学し、フルベッキのもとで英語を学ぶ。明治元(1868)年外国事務局御用掛、1871年、岩倉遣欧使節団の一員として欧米視察に参加、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文と共に全権副使となる。佐賀戦争では兵を率いて鎮圧に努めた。その後、元老院議官、会計検査院長など歴任、さらに貴族院議員に勅撰されている。

吉岡 荒太(よしおか あらた)

蘭学者・医者・技術者:明治元(1868)~大正11(1922)

妻とともに女医教育に尽力
東松浦郡入野村高串出身。代々続く医者の家に生まれ、上京して医者をめざしたが、途中からドイツ語教師となり、ドイツ語の塾至誠学院を設立した。この学校で生徒の女医・鷲山弥生(やよい)と出会って結婚、以後夫婦共同で教育と医療にあたった。明治33(1900)年女医養成機関である東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を設立し、女医の育成に貢献した。