写真:多布施公儀石火矢鋳立所図

27多布施公儀石火矢鋳立所図

佐賀藩が多布施川沿いの岸川町(現在の佐賀市伊勢町)に建造した反射炉の様子を推定して昭和初期に描いたものです。嘉永6年(1853年)、浦賀(現在の神奈川県横須賀市)にアメリカのペリー艦隊が、また、長崎にはロシアのプチャーチン艦隊が来航しました。幕府は外交交渉を進める一方で、江戸湾 (現在の東京品川沖)に築く砲台に備える大砲を、当時最も高い技術を持っていた佐賀藩に注文しました。幕府の注文を受けた佐賀藩は、稼働中の築地反射炉では製造能力が不足すると考え、新たに幕府受注専用の反射炉を築いて鉄製大砲 50門を製造しました。