幕末維新期の佐賀
鍋島直正の藩政改革
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鍋島直正公御実歴壱百図
個人蔵
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長崎港警備図
当館蔵
天保元(1830)年、17歳で家督を継いだ10代藩主鍋島直正は、アヘン戦争(1840~42年)の衝撃を受け、長崎警備の強化を考えます。しかし、そのためには藩財政を再建し、人材を育成することが必要でした。
直正は、質素倹約や借金整理などの政策により藩の財政を建て直すとともに、弘道館で藩士の全員教育を実施し、そこで学業を修めた者だけを役人として登用しました。その結果、藩財政は好転し、有能な人材が多く活躍できるようになりました。
海防の充実と西洋科学技術の導入
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蒸気車雛形(佐賀県重要文化財)
公益財団法人 鍋島報效会蔵
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直正公嗣子淳一郎君種痘之図
佐賀県医療センター好生館蔵
佐賀藩での改革が進められている頃、幕府がオランダから開国勧告を受けていました(1844年)。
これらのことは、佐賀藩をはじめ日本全体に、諸外国の軍事的圧力という危機感を与え、日本の鎖国政策をゆるがしました。このため、幕府・諸藩は海防の充実に力を入れることになります。
佐賀藩では、長崎からの海外情報をいち早く手に入れ、軍事や医学などの西洋科学技術の導入に努めます。軍事では、日本で初めて反射炉を完成させ、鉄製大砲を鋳造しました。また、精煉方において、蒸気機関の研究を行い、実用蒸気船「凌風丸」の建造に成功します。これも日本で初めてのことでした。
さらに幕府が設けた海軍の教育機関である長崎海軍伝習所に藩士を派遣して学ばせ海軍の増強に努めました。医学では、種痘を全国に普及させ、医師の免許制度をつくり、日本における近代西洋医学の基礎を作っていきました。
幕末から明治維新へ
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佐賀藩兵上野彰義隊砲撃図
個人蔵(佐賀県立博物館寄託)
幕末から明治維新期の日本の国内情勢はめまぐるしく変化していました。そのような中、10代藩主鍋島直正は藩政改革を成功させ、幕府や諸藩に負けない国力や人材を獲得し、多くの人々から一目おかれるようになっていました。
慶応4(1868)年、約260年におよぶ江戸幕府の政治が終わり、新政府が誕生しました。戊辰戦争で新政府が旧幕府の勢力を一掃し、全国を支配下においたことで、佐賀藩は薩摩藩・長州藩・土佐藩とともに、明治新政府の新しい国家の制度づくりに参画し、多くの分野で活躍する人々を輩出していったのです。