用語集
あ行
アームストロング砲(あーむすとろんぐほう)
イギリスのW.アームストロングが開発した錬鉄製構成砲です。新政府軍と旧幕府軍との間でおこった戊辰戦争では、佐賀藩が所持していたアームストロング砲などの最新装備が、新政府軍を勝利に導きました。
医学寮・蘭学寮(いがくりょう・らんがくりょう)
天保5(1834)年につくられた佐賀藩の医学教育施設が医学寮です。このころはまだ漢方が主流でしたが、嘉永4(1851)年に蘭学寮が付設されてからは、本格的な蘭学教育が行われるようになりました。
医業免札姓名簿(いぎょうめんさつせいめいぼ)
佐賀藩が開業を許可し、免札(免許)を与えた医師の名簿です。免札は、医学寮で学ぶなどして、資格を得た医師に与えられる決まりでした。この制度は現在行われている医師免許制度の先駆けとなるものです。
上野戦争(うえのせんそう)
江戸城が新政府軍に明け渡されたあとも、それを不満とする旧幕府軍の一部が上野の寛永寺にたてこもって抵抗を続けました。慶応4・明治元(1868)年5月15日、新政府軍は寛永寺を総攻撃しました。このとき、佐賀藩が装備していたアームストロング砲が威力を発揮して、 新政府軍の勝利を決定づけました。
エンフィールド銃(えんふぃーるどじゅう)
幕末期に佐賀藩が海外から大量に輸入した洋式銃で、弾を銃口から入れる先込め式です。銃身の内側にらせん状の溝がつけてあるため、弾が回転し射程距離がのび、命中率が高くなっています。
鬼瓦(おにがわら)
佐賀城本丸御殿の棟を飾ったとされる鬼瓦です。「天保八(1837)年酉三月□□瓦工善吉」の銘が右側面にあり、本丸御殿が天保期に再建されたときのものと考えられています。重さは約18kg。現在、歴史館御三家座にて御覧いただけます。
オランダ風説書(おらんだふうせつがき)
長崎にやってきたオランダ人からの情報を日本語に訳したものです。江戸幕府は、外国からの情報はたいへん重要だと考え、長崎にやってきたオランダ人に外国の情報をもとめました。佐賀藩もその写しを手に入れていました。
御船手稽古所(おんふなてけいこしょ)
現在の佐賀市と川副町の堺、早津江川右岸につくられた佐賀藩の海軍学校。ここには、演習場や造船所が整備され、長崎の海軍伝習所で学んだ者たちが操船技術や航海術、造船技術などを藩士に教えていました。
御間絵図(おんまえず)
本丸御殿で行事を行う際の部屋のしつらえや、席次を記した絵図です。襖や障子、板戸などがどのように立てられていたか、人はどのような場所に誰が座っていたか等が記されており、藩主の場所は「御」等の文字で表されています。外御書院北廊下の行事では「御弓はじめ」などが記されています。
か行
海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)
開国をひかえた幕府が洋式海軍をつくろうと考え、オランダ人を教官としてつくった海軍学校です。 佐賀藩からも多くの伝習生が参加し、操船や 造船など、さまざまな知識や技術を学びました。ここで学んだ佐賀藩士の中からは、幕末の遣米使節の参加者、明治初期の海軍の指導者などを輩出しています。
開国勧告(かいこくかんこく)
弘化元(1844)年、 長崎奉行所にオランダ国王から開国を求める国書が届きました。 国書には、産業革命のあとのヨーロッパの変化と、 アジアへの進出の様子が書かれており、 さらにアヘン戦争の状況を重くみた国王は、 日本に開国をするようすすめました。
カノン砲(かのんほう)
佐賀藩で主につくられていた大砲です。長崎や品川の砲台に備えたのも多くはこの大砲でした。当時は、大砲の大きさを24ポンド砲や36ポンド砲など発射する弾丸の重さで表していました。歴史館の御料理間では、25ポンド砲の弾丸の重さを体感できる展示もあります。
壁(かべ)
「荒壁塗り」「中塗り」「漆喰砂ずり」「漆喰上塗り」など全11工程からなっており、天保期の漆喰壁と同じ構造に仕上がっています。現在、漆喰壁を作る場合は、4工程ほどなので倍以上の手順を踏んでいることになります。この構造は、歴史館の御三家座で御覧いただけます。
神ノ島・四郎島(かみのしま・しろうがしま)
アヘン戦争の情報に危機感をもった佐賀藩は、 長崎港外の伊王島と神ノ島に砲台を増築することにしました。その工事の一環として神ノ島と四郎島間の海を埋め立てて陸続きにしまました。
行政組織の改革(ぎょうせいそしきのかいかく)
改革を進めるために、御仕組所という役所が新しくつくられました。 後に、首席家老となった 鍋島安房(茂真・直正の異母兄)が、 その責任者を兼ねたことで、 政治体制がまとまり、 改革も進んでいきました。また、人事面では、藩の役人の3分の1(約420人)の役職をとく一方で、身分に関わりなく有能な人材を登用していきました。
好生館(こうせいかん)
安政5(1858)年、佐賀藩では 医学寮を藩校から独立させて片田江にうつし、 好生館と名前を変えました。 現在の佐賀県医療センター好生館の前身です。 文久元(1861)年からは、 好生館で蘭方医学を学んだ人だけに免札(免許)が与えられることになりました。
弘道館(こうどうかん)
8代藩主鍋島治茂が、 藩の政治を行う人たちを育てるために建てた佐賀藩の藩校です。10代藩主鍋島直正のときに、北堀端(現在の徴古館付近)に移転・拡張され、文武の修業を大いに奨励しました(25歳までに一定の課業を修了しないものは役人として任用しないことを決めた「文武課業法」という厳しい制度もつくられました)。
小屋組(こやぐみ)
本丸御殿の大きな屋根を支える天井裏の木組みの構造です。この小屋組みには、周囲が2m、長さが10mもある大きな丸太が縦横に組まれています。歴史館の御三家座では、天井が一部ガラス張りになっており、小屋組の実物を見ることができます。
さ行
財政改革(ざいせいかいかく)
佐賀藩では、出費を節約し、 家臣たちから献米を行わせたほか、江戸や大坂の商人などから借りていたお金の返済額を減らしてもらったり、殖産興業の推進により綿花、甘蔗の栽培、石炭の採掘などにも力を入れました。
佐賀城(さがじょう)
近世の大名、鍋島氏の居城です。佐賀城を取り囲む堀の幅は約100mあり、日本でも有数の規模を誇っていました。佐賀城は、本丸、二の丸、三の丸などからなっており、藩政の中心部となる本丸は佐賀城の南東部に位置していました。現在、この佐賀城本丸御殿を復元した佐賀城本丸歴史館が建設されており、周辺には、石垣、天守台、国の重要文化財である鯱の門が現存しています。ここに来れば、江戸時代の佐賀の雰囲気を感じていただけるのではないでしょうか。
佐賀城御本丸差図(さがじょうごほんまるさしず)
消失した本丸御殿を10代藩主鍋島直正が再建したときの設計図にあたる絵図です。この絵図には、柱の位置などが詳細に記してあり、発掘調査で見つかった礎石とほぼ一致しました。この絵図は、本丸御殿を復元する際に大変重要な資料となりました。
佐嘉小城内絵図(さがしょうじょうないえず)
慶長年間(1569~1614)の佐賀城の様子を描いた絵図です。江戸時代初期の佐賀城内の建物が描かれており、天保11(1726)年の火災で焼失した天守閣も描かれています。
佐賀藩(さがはん)
鍋島藩、肥前藩とも言います。鍋島直茂が藩祖、勝茂が初代となります。石高は、35万7000石。全国で10番目、外様大名の中では8番目に大きな藩でした。佐賀藩の中には、複数の領地があり、鍋島本藩のほかに小城・蓮池・鹿島の御三家や唐津藩・対馬藩田代領などがありました。現在の地理では、佐賀県と長崎県の一部に位置していました。
鎖国(海禁政策)(さこく(かいきんせいさく))
日本が江戸時代に行った海禁政策です。海外との交流は、絶たれていたわけではなく、限られた中で行われていました。長崎では、オランダ・中国と貿易を行うほか、対馬藩で朝鮮と、薩摩藩で琉球と、松前藩でアイヌとの交流が行われていました。
参勤交代(さんきんこうたい)
江戸時代、参勤交代を命じられた大名は、一般に、1年交代で江戸と国元を往復していました。 佐賀藩は、長崎警備を行う関係で、他藩より江戸にいる期間は短く定められていましたが、参勤交代には多くの費用がかかっていたため、天保3(1832)年に行列の人数約320名中約80名 (全体の約4分の1)を減らしました。
湿板写真機(しっぱんしゃしんき)
フィルムのかわりにガラス板を使う写真機です。湿板写真は、ガラス板にぬった溶液が湿っているうちに撮影と現像を行います。御料理間では、幕末に写真術の研究をしていた精煉方で試作されたと考えられている湿板写真機の複製品をご覧いただけます。
品川宿での足止め(しながわしゅくでのあしどめ)
10代藩主鍋島直正が江戸から初めて佐賀に下る途中、品川宿で行列が足止めされました。その理由は借金取りが江戸藩邸に押しかけて、行列の人数がそろわず、出発出来なかったためでした。借金は、先代までの借金でしたが、このことで佐賀藩の財政の厳しさを痛感し、藩政改革に取り組む決心をしたといわれています。
品川台場(しながわだいば)
アメリカからペリー、ロシアからプチャーチンと次々に来航する黒船に衝撃をうけた幕府が、 江戸のまもりを固めるため、江戸湾内の品川沖につくった 台場(砲台)です。ここには、佐賀藩の多布施反射炉で造られた大砲も設置されました。東京都の御台場には、現在でも砲台が残っています。
鯱の門(しゃちのもん)
御座間とともに現存する江戸時代の建物で、国の重要文化財に指定されています。鯱の門には、佐賀の乱(佐賀戦争)時の銃弾の跡が残っており、柱の一部には打ち込まれた銃弾がそのまま残っている箇所もあります。鯱の門の棟の両端にある鯱は「建物が火事の際には水を噴き出して火を消す」という故事により取り付けられています。
種痘(しゅとう)
弘化3(1846)年、佐賀藩では天然痘が大流行しました。予防には牛痘の種痘が効果的だと知った10代藩主鍋島直正は、楢林宗建に命じて痘苗(ワクチン)をオランダからとりよせ、嘉永2(1849)年8月、佐賀城で息子の淳一郎(直大)に接種しました。その成功によって種痘は領内に広がり、やがて全国に普及していきました。
蒸気車雛形(じょうきしゃひながた)
蒸気機関車(佐賀藩精煉方製と伝えられる)の模型です。佐賀藩士は、長崎に来航したロシア船内で蒸気車の模型を見て大変驚きました。その後、精煉方で蒸気機関研究が進められ、蒸気船へとつながっていきました。
蒸気船雛形(外輪船) (じょうきせんひながた(がいりんせん))
精煉方が蒸気機関研究のために試作した模型です。佐賀藩で初めてつくられた蒸気船「凌風丸」の原型といわれています。
精煉方(せいれんかた)
嘉永5(1852)年に設けられた精煉方は、佐賀藩の「理化学研究所」ともいわれます。佐野常民がリーダーとなり、すぐれた蘭学者や技術者が集められ、物理・化学の研究や、 機械の試作、蒸気機関の研究などを行いました。この成果は、のちに佐賀藩の海軍所において、 蒸気船「凌風丸」として実を結ぶこととなりました。
銑鉄(せんてつ)
砂鉄や鉄鉱石を還元させた鉄のことです。この銑鉄をさらに高温で熱することでより純度の高い鉄を作り出すことができます。佐賀藩では、銑鉄を高温に熱するための施設「反射炉」を日本で初めて建設しました。
礎石(そせき)
柱の土台となる石です。佐賀城本丸跡の発掘調査を行ったときに、江戸時代の礎石が良好な状態で見つかりました。この発掘調査は、本丸御殿を復元するにあたり大変重要な資料となりました。歴史館の御三家座にはガラス張りの床があり、江戸時代の礎石を御覧いただけます。
た行
大銃製造方(たいじゅうせいぞうかた)
佐賀城下の築地におかれた大砲・銃などの研究・製造をおこなう役所です。ここ築地には、国内初の反射炉がつくられ、日本初の鉄製大砲が鋳造されました。佐賀藩では、着手から2年近くかかって、鉄製大砲の鋳造に成功しました。
多布施公儀石火矢鋳立所(たふせこうぎいしびやいたてしょ)
品川台場に備える大砲を鋳造するために設けられた工場です。ペリー来航後海防に危機感を持った幕府は、品川台場に備える大砲50門を佐賀藩に注文しました。佐賀藩では、多布施川ぞいに新たな工場をつくり、公儀(幕府)用の大砲を製造しました。
出島(でじま)
日本がオランダと貿易を行っていた長崎湾内の人工島です。本来は、長崎開港以来、街中に住んでいたポルトガル人を居住させるために作られました。その後、ポルトガル人は国内から退去し、平戸にあったオランダ商館が出島に移されました。
天守閣(てんしゅかく)
天守閣の本来の役割は、物見櫓や倉庫でした。後に、権力の象徴として豪華な天守閣が建設されるようになりましたが、天守閣は居住空間や政治の場所ではありませんでした。現在、佐賀城の天守閣は復元されておらず、天守台の石垣が残るのみです。
土居葺(どいぶき)
防水のための仕組みで、雨漏りを防ぐ屋根構造のひとつです。小屋組みの上に野地板を敷き、その上に杉の割板を竹釘でとめていく土居葺が施されます。この土居葺を施した後に瓦が並べられます。
な行
長崎港(ながさきこう)
江戸時代に日本が海外と貿易を行っていた港です。長崎港は、幕府の直轄地ですが、港は佐賀藩と福岡藩が隔年交代で警備を行っていました。長崎警備を行い、海外からの情報をいち早く入手することができた佐賀藩は、他藩に先駆けて近代化をおし進めました。
長崎奉行(ながさきぶぎょう)
江戸時代、長崎は幕府が直接支配していました。そのため、長崎には奉行が派遣され、長崎警備のとりまとめや、九州地方の大名の監視、貿易の監督、外国使節の応接などをしていました。また奉行は、長崎にやってきたオランダ人から ヨーロッパなどの海外情勢に関する報告書を受け取り、海外からの最新の情報を収集していました。
鍋島直正公御実歴壱百図(なべしまなおまさこうおんじつれきいっぴゃくず)
10代藩主鍋島直正にまつわる100のエピソードに絵をつけたもの。このなかには、直正に藩政改革を決意させたといわれる品川宿での行列の足止めの話などが紹介されています。
農村への政策(のうそんへのせいさく)
佐賀藩の政治の基本は、農業でした。そのため、農村を見まわり、 困っている人に米を配るなど、 農村の安定化をはかりました。また、領内の自給力を高め、領外への移出を盛んにするために、塩・紙・蝋・綿・茶・甘蔗などの殖産や、石炭産業などを振興していきました。
は行
廃藩置県(はいはんちけん)
明治維新期の明治4(1871)年に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、府と県を置いた行政改革です。佐賀藩は、当初伊万里を中心とした伊万里県となった後、近隣地域との合併・分離を行い、明治16(1883)年に現在の佐賀県となりました。
博愛社(はくあいしゃ)
日本赤十字社の前身となった救護団体です。明治10(1877)年の西南戦争では、最新式の武器が使われたため、多くの死傷者がでました。 この状況に心をいためた佐野常民と大給恒は、敵味方の区別なく負傷者をすべて助ける救護団体・博愛社を設立しました。 博愛社を設立した佐野常民は、のち日赤初代社長をつとめました。
パリ万国博覧会(ぱりばんこくはくらんかい)
佐賀藩は、慶応3(1867)年に、パリで開かれた万国博覧会に、幕府や薩摩藩とならんで参加しました。このとき、佐野栄寿左衛門(常民)を団長に5名の人物が、領内の磁器や白蝋、 紙、麻などの産物とともに海を渡りました。また、海外からは顕微鏡、サラダ油、ガラス皿などの収集品を持ち帰っています。
パレンバン号(ぱれんばんごう)
弘化元(1844)年に長崎に入港したオランダの軍艦です。 オランダ国王からの開国をすすめる国書と贈り物を持って来航しました。 長崎警備を行っていたことから、この軍艦にたいへん興味をもった10代藩主鍋島直正は、 家臣たちと船に乗りこんで中の様子や訓練を見学しました。
反射炉(はんしゃろ)
反射炉はアーチ形に成形された炉で、後部でたいた燃料の炎や熱を壁や天井にあてて屈折させ、炉内においた金属を溶かします。高い煙突があるため自動的に風が送られ、1つの炉で2トン以上の鉄を溶かすことができました。2つの炉を並べて1基とし、大型の大砲の製造では複数の炉で同時に作業を行いました。現在、佐賀城本丸歴史館では、模型と映像の展示で反射炉のしくみを見ることができます。
藩政改革(はんせいかいかく)
江戸時代に各藩が行財政再建のために行った、政治・経済の改革のことです。10代藩主鍋島直正も、質素倹約や殖産興業などを進めた財政改革、藩校弘道館の拡張などによる教育改革、新たな役所「御仕組所」を設置して行った行政改革などの藩政改革に取り組み、佐賀藩を雄藩へと導きました。
版籍奉還(はんせきほうかん)
明治2(1869)年に日本の明治政府により行われた中央集権化事業のひとつで、諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還が行われました。これにより、佐賀城の本丸御殿は佐賀藩庁として使用されることになり、本丸、二の丸、三の丸などの名称も廃止されました。初代知事となったのは、鍋島家最後の藩主である11代直大でした。
フェートン号事件(ふぇーとんごうじけん)
文化5(1808)年、イギリス船が長崎港に不法侵入した事件です。このときイギリスは、オランダの国旗をかかげて入港し、オランダ商館員2人を人質にして、燃料や食料などを要求しました。この責任をとって、長崎奉行の松平康英は切腹、佐賀藩も、9代藩主斉直の逼塞をふくめた処分をうけました。
米欧回覧実記(べいおうかいらんじっき)
明治4(1871)年、岩倉具視を全権大使としてヨーロッパやアメリカを視察した使節団の報告書です。旧佐賀藩士久米邦武が編修、執筆し、政治、産業、教育などさまざまな記録がなされています。
ポサドニック号事件(ぽさどにっくごうじけん)
文久元(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎浦一帯を半年間にわたり占拠した事件です。幕府や対馬藩は対応に苦しみますが、イギリスの強い抗議もあり、軍艦は立ちのきました。このとき、田代領から代官の平田大江を中心に316名が対馬に出兵しました。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)
慶應4・明治元(1868)~明治2(1869)年、新政府軍と 旧幕府軍との間で起こった内戦。鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの総称。1868年の干支が戊辰であったことから戊辰戦争と呼ばれています。
北海道(ほっかいどう)
佐賀と北海道は深いかかわりがあります。10代藩主鍋島直正は、初代の北海道開拓長官に任命されました。また、佐賀藩士島義勇は藩主直正の命により、 安政年間に蝦夷・樺太(サハリン)を探検。その後、北海道開拓首席判官として、札幌市街の建設など北海道開拓に貢献しました。
本丸御殿(ほんまるごてん)
藩政の中心であり、藩主の日常生活がなされていた建物。日本各地のお城にも、かつては本丸御殿がありましたが、都市化により次第に失われていきました。佐賀城本丸御殿の特色は、10代藩主鍋島直正が1838年に本丸御殿を再建した際、生活空間である「奥」と政治が行われる「表」を近くに作り、合理的な政治を行った、という点にあります。
本丸御殿復元(ほんまるごてんふくげん)
日本で初めて本丸御殿の復元を行いました。この本丸御殿復元には、礎石、佐賀城御本丸差図、古写真、類例建物、現存している建物である御座間や鯱の門などの資料が活用されました。木造復元建物としては、日本最大級の規模を誇ります。
ま行
無尽灯(むじんとう)
「からくり儀右衛門」こと田中久重が発明したもので、人が油をつぎたさなくても長い時間あかりをともしておくことができる江戸時代のランプ(照明器具)です。
村中城(むらなかじょう)
戦国大名龍造寺氏の居城です。その後、この村中城が拡張されて、鍋島家の居城「佐賀城」が建てられました。
モルチール砲(臼砲)(もるちーるほう(うすほう))
砲身が短く少量の火薬で発射できることが特徴の大砲です。幕末に日本で初めてつくられた洋式砲はモルチール砲で、高島流と呼ばれる西洋砲術の開祖高島秋帆によってつくられました。
や行
吉田松陰が見た佐賀(よしだしょういんがみたさが)
嘉永2~3(1849~50)年に九州にやってきた吉田松陰は、佐賀もおとずれており、「通りを行き来する少年の多くは 書物をもち、袴をつけて歩いている。まことに 文武を兼ね備えた国と見受けられる。」と、佐賀藩を高く評価しました。
ら行
蘭学(らんがく)
江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術などのことです。佐賀藩は、福岡藩と隔年で長崎警備を行っていたので、蘭学を学ぶ機会に恵まれていました。
凌風丸(りょうふうまる)
慶応元(1865)年に完成した蒸気船凌風丸は、全長約18メートル、幅3.3メートルで、船体の両側に水車のような推進機をつけた外輪船でした。10馬力という小さな船でしたが、佐賀藩が初めて建造した蒸気船として記念すべきものでした。
レザノフ(れざのふ)
レザノフは、ロシアの正式な使節として文化元(1804)年に通商を求めて長崎に来航しました。しかし、日本の漂流民の返還は行えましたが、ロシアの通商要求は認められませんでした。