佐賀城本丸御殿の復元
概要
復元年代
鍋島直正(10代藩主)が本丸御殿を再建した「天保期」です。(1838年完成)
復元の考え方
復元にあたっては、佐賀城本丸御殿の発掘調査、絵図・差図・文献資料・古写真、類例建物など建物復元調査の成果をもとに、展示スペースとして広い空間の確保を考慮に入れ、復元個所を選定しました。
計画概要
建設場所...佐賀市城内(佐賀城本丸跡)
敷地面積...3.5ヘクタール
建物構造...木造瓦葺き平屋建(一部2階建)
延床面積...2,500平方メートル
建設場所...佐賀市城内(佐賀城本丸跡)
佐賀城本丸の遺構
佐賀城本丸跡の発掘調査
佐賀城本丸跡に、県立佐賀城本丸歴史館が建設されることになったため、平成5・6年度に佐賀市教育委員会が確認調査を実施しました。その結果、本丸を区画する石垣や土塁の他、「佐賀城御本丸差図」とほぼ一致する建物の礎石が見つかりました。その後、佐賀城本丸歴史館が本丸遺構を保存しながら本丸御殿の一部を復元して資料館として活用することに、また佐賀城本丸歴史館の周囲は佐賀城公園「歴史の森」として整備されることになったため、平成11年度から13年度にかけて県教育委員会が発掘調査を実施しました。
発掘調査の成果
- 本丸御殿の建物跡が良好に残っていること
- 石垣・土塁・堀で区画する本丸の区域がはっきりしたこと
- 本丸遺構は、絵図や文献との照合ができ、本丸の変遷がよくわかること
- 建物礎石の基礎構造や石垣下部の通水施設など特徴的な遺構が見られること
全国的に見ても、本丸御殿の発掘調査例は少なく、佐賀城本丸跡は城郭史や建築史の観点から貴重な資料であると言えます。 佐賀城本丸跡の主な遺構について紹介します。
1.建物跡
建物跡は、本丸のほぼ全域に広がっており、礎石の検出状況や天保期の「佐賀城御本丸差図」・嘉永期の「嘉永年中御本丸御差図」との比較から時期の違いも明らかになりました。
天保期
「佐賀城御本丸差図(さがじょうごほんまるさしず)」とほぼ一致する部分にあたります。確認した建物は御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・堪忍所(かんにんどころ)・御台所・御小書院・請役所(うけやくしょ)・長局(ながつぼね)・御懸硯方(おんかけすずりかた)・大御台所・御土蔵床等です。礎石には自然石と加工した切石が見られますが、外から見える礎石に切石が多く、それ以外は自然石が多いようです。特に外御書院の建物は東西49メートル、南北15メートルと本丸御殿の中で最も大きな建物であり、縦横の長さが約1メートルの大きな礎石も使用しています。礎石の中には柱を据えるための窪みを持つものもあります。また御台所の土間は漆喰で固められ、土間の中に直径約1メートルの井戸が掘られていることも確認でき、差図どおりであることがわかりました。天保9(1838)年に再建された本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院・御料理間などの「表」の部分、藩主の居室である御座間などの「中奥」、長局などの大奥部分に加え、請役所や御懸硯方などの「役所」機能も取り込んだ、藩政の拠点としての役割が、遺構としてそのまま残っていることが大きな特色です。
嘉永期
西側部分は、嘉永期(嘉永3年・1850年)の差図に描かれた御会業之間(ごかいぎょうのま)・皆次郎様御住居等の遺構が確認され、天保期の佐賀城御本丸差図にある大溜(おおだまり)・大御書院・能舞台などの遺構はなく、計画のみで建てられなかったことがわかりました。
享保期以前
享保期の礎石の下に築城当時(慶長13年・1608~16年)と考えられる礎石が残っています。この礎石の上には灰がかぶっており、火災後整地したことがわかります。
2.礎石の基礎構造
天保期の建物礎石の基礎構造に違いが見られます。御式台・外御書院・御料理間等の礎石基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めていますが、御納戸や屯之間(たまりのま)の基礎は、溝を柱筋に掘り込み、その底に松の丸太を組み合わせておき、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし最後に赤石を使った礎石を載せています。このことは、「御手許日記(おてもとにっき)」の工事費を節約するために松と赤石を使って基礎にするという記録と一致します。
3.本丸の区画
本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東側南半と南側は土塁で囲まれており、西側石垣前面には帯曲輪(通路)が設けられています。以前より天守台や鯱の門の周辺は石垣が良く残っていましたが、西側の石垣や南西隅櫓台、南側土塁は壊されていて見ることができませんでした。しかし、発掘調査により下部構造は残っていることがわかりました。
西側土塁石垣
平均すると2~3段の石垣が、約100メートル残っています。外面(三の丸側)は石積み、内側は土羽(土塁)ですが、北端部分の約16メートルは内側も石積みで、天守台西側石垣との間に幅約1.8メートルの通路を設けています。石材はほとんどが安山岩系で、場所によって石の割り方や積み方の違いがあり、修理が行われたことがわかります。この石垣の基礎には、松の丸太を加工し、はしご状に組んだ胴木(どうぎ)が使われています。
帯曲輪
西側石垣の前面に沿って幅約8~10メートルの帯曲輪があります。通路面には砂利が敷かれている所も確認できました。堀との境は石垣ではなく、板材を用いて土留めをしていたようです。
南西隅櫓台
東西長約16メートル、南北長約13メートルの長方形で、石垣は高さ1.6メートル、段数で3段残っていました。寛保年間に大修理をした記録があることから、見つかった石垣はこのときのものと思われます。石垣の積み方は、石材の隣りあう面まで丁寧に加工した亀甲乱積みと呼ばれるもので、佐賀城内唯一のものです。
南側土塁
築城当初は、全て土で造られていましたが、堀の水の影響で壊れやすかったため、水に接する部分のみ赤石を使った石積(石搦)に作りかえられました。土塁には松の木が生えているようすが描かれています。
4.利水施設
嘉瀬川の石井樋から水を引いた多布施川は、佐賀城や城下町への上水道の役割を果たしていました。多布施川から分岐する城内の上水施設や城外への下水施設については、これまでよくわかっていませんでしたが、発掘調査で西側石垣の下部を通る木樋と石組み井樋を確認しました。城郭石垣の下部を通す樋管の例はほとんどないため貴重な資料です。
木樋
北端付近の石垣を貫通しています。板を箱形に丁寧に組み合わせており、石垣西側では底板と側板がほぼ完全に残り、蓋板の一部やそれを止める釘も残っていました。底板は石垣下が最も低く、両側が高いV字型となっていますが、当初からのものではなく、流路方向は不明です。残っている部分は約18メートル、木樋の下には枕木状に横木が入れてあり、不等沈下を防いでいました。
石組み井樋
西側石垣の中央よりやや南側で加工した板石を組み合わせた樋管を確認しました。全長約16メートル、内法は、幅0.75メートル、高さ0.45メートル、底石は幅0.4メートル前後の石を47個並べ、側壁石は8個(長いもので2.35メートル)並べています。石材は安山岩系を用い、それぞれの石をかみ合わせるために加工を施し、底石の下には胴木を敷いていました。底面の高さは三の丸側より本丸側が0.2メートルほど低くなっていますが、最初から勾配はついておらず、本丸側開口部より4メートルのところから緩やかに下がっています。
赤石積水路
石組み井樋の東側は、赤石の切石を用いた水路が続いています。水路は石組み井樋開口部から緩やかに南東方向にカーブし、さらに東へと方向を変えています。水路の幅は0.8~1メートル、胴木の上に赤石を積み、裏栗にも赤石を使用しています。水路の底には石はなく、胴木より0.1メートル上に赤石を砕いたものを敷き詰め底面を造っています。
これらの施設の用途については、木樋、石組み井樋とそれに続く赤石積水路とも、ていねいな加工や丈夫な作りから、上水道の役割を果たしていたのではないかと考えていますが、造られた時期を含めもう少し検討が必要です。
遺構の保護
発掘した遺構は、天保9(1838)年に再建された本丸御殿を描いた『佐賀城御本丸差図』と、ぴったり一致し、遺構の残りも良いことから、考古学のみならず、城郭史・建築史などの分野でも貴重な発見となりました。
佐賀城本丸歴史館の建設は、この調査結果や『佐賀城御本丸差図』などの絵図、文献資料、古写真などの解析などを基に、周囲の環境と調和をはかりながら、佐賀城本丸御殿を正確な位置に木造で復元しました。このため、復元建物の建設にあたっては、基礎杭の打設など遺構を破損する恐れのある工法は用いずに、建物の荷重を均等に地面に伝達するよう厚さ30センチメートルの耐圧盤を敷き、その上に復元する方法としました。
また、この耐圧盤が直接遺構に触れないように厚さ10センチメートルの砂のクッション(サンドクッション)を敷き詰め、遺構を確実に保護するようにしています。