阿弥陀寺の「洪浩然の墓」説明板が新しくなりました!
洪浩然(こう・こうぜん/1582~1657)は、文禄の役勃発の翌年(文禄2年・1593年)の「晋州(チンジュ)城の戦い」の際に、鍋島直茂軍によって捕らえられて佐賀に連行され(当時12歳)、その後鍋島直茂・勝茂父子の側近くに仕えた人物で、書家・学者として有名です。明暦3(1657)年4月、勝茂の死の報に接した洪浩然は、自邸で「忍 忍則心之宝(忍ぶはすなわち心の宝)、不忍身之殃(忍ばざるは身のわざわい)」と書き遺し、阿弥陀寺(現佐賀市木原)で「追い腹」を切りました(殉死)。
その阿弥陀寺には、洪浩然と洪家一族の墓があり、これまで佐賀市教育委員会が設置した「洪浩然の略歴」と題した古い説明板がありました。
11月初め、佐賀市教育委員会から、この「洪浩然の略歴」説明板を新しく作り直すので、アドバイスして欲しいとの相談を受けました。
実は、昨年(平成20年)10月から12月にかけて県立名護屋城博物館で寄贈記念展「洪浩然忍ぶ・忘れず」、美術館でテーマ展「没後350年 よみがえる洪浩然の書」のリレー展示を開催し、当時名護屋城博物館で勤務していた浦川と県立博物館の福井学芸員が担当しました。そこで、2人で既存の説明文を検討し、タイトルを「洪浩然の墓」と改め、両展覧会で蓄積した成果を活かして全面的にリニューアルした文案を作ることにしました。
作成した文案は、洪家・西村家のご子孫の澤田多恵子さん、西村慶子さん、西村潤三さんに見ていただき、ご意見を加味して充実させました。また、志波一郎さんと名護屋城博物館の協力を得て、資料の図版も加えることにしました。
佐賀市教育委員会は、この文案をもとに、12月21日に阿弥陀寺の門の横に新しい「洪浩然の墓」説明板を設置しました。
展覧会の成果が、具体的に史跡の整備に活かされています。
(浦川)
「洪浩然の墓」説明板。
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