みやき町重要文化財 誕生仏(高寺観音堂)展示中
みやき町重要文化財 誕生仏(高寺観音堂)を展示しています!
本年10月にみやき町重要文化財に指定された誕生仏(みやき町中津隈西区・高寺観音堂)を、12月3日より博物館2号展示室で展示しています!展示は2020年3月末頃までの予定です。この機会に、ぜひ多くのかたにご覧いただきたいと思います。
この記事では、来年1月1日からの企画展準備であわただしい担当学芸員Tさんに代わって、仏教美術は初心者の職員Yが本像についてご紹介します。
本像は像高7.7cmの大変小さな金銅仏で、釈迦が生誕したときの様子をかたどった誕生仏とよばれるもの。釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれ落ちてすぐに7歩歩み、両手で天と地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられますが、まさにその姿をうつしています。釈迦が誕生したとされる4月8日には仏生会という行事が寺院でとりおこなわれますが、誕生仏はこの儀礼で用いられます。
このお像は体躯に比して大きな頭部、ほっそりとした腰つきが印象的で、両足に沿ってひだが流れる裙(腰に巻いた衣)のあたりに渡金が残されており、今もわずかに輝きを放っています。また、頭部の後ろにはほぞのような突起があり、何らかの装飾が付随していたことをうかがわせます。本像は伝来するなかで火災に遭ったとみられ、そのためか表面にざらざらとした荒れが生じています。天を指差していたと思われる左手先も欠損しており、このような傷跡からは、本像が伝来してきた長い時間を思わずにはいられません。
さて、本像はその造形の特徴から、白鳳時代末から奈良時代前期頃の造像と考えられます。白鳳時代とは、7世紀半ばから710年の平城京遷都までを指す時代区分で、美術史や考古学において用いられるもの。政治史では飛鳥時代の後半期にあたります。この時期は大化の改新を経て、律令制に基づく政治機構が整備された時期であり、それに伴って寺院の造営もさかんとなり、仏教芸術が花ひらきました。
特徴的なのは、個人の礼拝に用いられたと考えられる、小型の金銅仏が数多く制作されたことです。これは天武天皇の14年(685)、諸国の家ごとに仏舎を造って仏像と経巻を安置し、礼拝供養して仏事に励むよう詔が発せられたことに起因するとみられています。のちの持統天皇も、天武天皇に引き続き同様の詔を出して仏事を奨励しました。これらの詔では、大きな寺で多数の人が礼拝する仏像というよりも、在家の信者が礼拝する念持仏(自宅の一室など身近なところに安置して日々礼拝するための像)の造立が想定されていたのではないかといわれています。これによって全国で造像がさかんとなり、多種多様なお像が制作されたとみられていますが、この高寺観音堂のお像の製作の経緯にも、そのような状況が関係しているかもしれませんね。
本像を所蔵している高寺観音堂は地域の方々の手で守られてきたお堂ですが、本像はみやき町重要文化財に指定されたことを契機に、大事な文化財をより安全に守り伝えるため、当館への寄託が決まりました。本像が日本の歴史や文化にとって大事なお像であると同時に、長きにわたっておまつりしてきた地域のひとびとにとっても大事なお像であることを感じながら、ご覧いただけると幸いです。
参考:『白鳳―花ひらく仏教美術』(展覧会図録)奈良国立博物館、2015年。