古墳の壁画に描かれたものは、いったい⁉ ~日下八光《鳥栖市田代太田古墳壁画復元模写図》~
今回のミュージアム・ダイアリーでは、博物館3号展示室で開催中のコレクション展「日下八光(くさかはっこう)-装飾古墳の記録-」から、日本画家の日下八光がうつした、鳥栖市の田代太田古墳(たしろおおたこふん)の壁画模写についてご紹介します。
突然ですが、鳥栖市に、日本でも珍しい鮮やかな装飾壁画を有する古墳があるのをご存じでしょうか?
鳥栖市の田代太田古墳は、佐賀県鳥栖市本町字太田の丘陵縁辺部に位置する直径42mの円墳で、6世紀後半(いわゆる古墳時代、ヤマト王権の時代)に築造されました。2段に築かれた墳丘(ふんきゅう)は高さが約6mあります。
日本でも有数の彩色系壁画古墳として早くから知られており、1926年(大正15年)には、なんと国指定の史跡になっています。
古墳の主体部の奥壁など3か所には、花崗岩の地肌(黄色)に赤・黒・緑などの顔料を用いて彩色が施されています。
その彩色を詳しく分析すると、赤色顔料はベンガラ(酸化鉄を主成分とする赤土)、黒色顔料は炭化物、緑色顔料は海緑石(かいりょくせき)という鉱物をそれぞれ使用していると考えられています。
この田代太田古墳の彩色壁画を模写したのが、日本画家である日下八光氏(1899-1996)です。
日下氏は、昭和30年から文化庁(当時の文化財保護委員会)から委嘱され、全国各地にある古墳時代の装飾古墳壁画の現状を模写するプロジェクトに携わりました。
国内にある装飾古墳の壁画は、描かれて千数百年の年月が流れ、壁面の劣化が進むだけでなく、日光や石室内に染み出す水等の影響で文様が不鮮明なものが数多くあります。このため、日下氏は装飾古墳壁画の現状を記録するだけでなく、壁画が描かれた当時の姿に近い形での再現に成功しました。
大正年間にその存在が知られた田代太田古墳の石室には、船や馬、人物などの絵画のほか、同心円文や三角文等の文様が描かれています。他の装飾古墳同様、実際の壁画の文様は劣化が進み判別しづらいのですが、日下氏の仕事により古墳時代の原始絵画が現代に生き生きと甦っています。
それでは、今回の展示作品のひとつ、日下八光筆《田代太田古墳後室奥壁画復元模写図》を見てみましょう。
田代太田古墳の奥壁の壁画は、幅約2.3m、高さ約1.1mの腰石(石室の壁に使われている石のうち一番下にあるもの)に、背景として三角形を連続して描いた文様(連続三角文)を描き、中央部分に円を何重にも描いた文様(同心円文)を4個配して、これらの間を埋めるように、花弁の内部に緑を入れた花文や、手を挙げている人物(挙手人物像)や馬に乗った人物(騎馬人物像)、渦巻きのように描かれている文様(蕨手文)、船、高坏を配し、右下には4個の楯を並べたように描いています。
これらの構図の特徴は、連続三角文や蕨手文などの抽象的な文様と人物像のような具象的なものを巧みに配し、一種の物語を表現しているかのように見えます。
三角文で表現されたウロコには、魔除けの意味を込めたのでしょう。また、4つの同心円文は大きさや色彩構成がそれぞれ異なり、同心円文が太陽を象徴したものと考えると、全体で四季の移り変わりを表現しているようです。
右から2つ目が表す秋には、高坏に供物をして両手を挙げて踊り収穫を祝う祭りの様子が描かれているようです。
太古にこの地に生きた人々は、どのような目的や思いを込めて、これらの壁画を残したのでしょうか。
その真相は今も謎に包まれていますが、日下氏のうつした壁画を眺めていると、彼らが現代の私たちと同じように、多様な色彩や文様にさまざまな願いを託して絵を描いていたことが感じられるようです。
今回の展示では、田代太田古墳の装飾古墳の現状の模写図と復元模写図を同時に並べ、日下氏の観察眼の下、現代によみがえった装飾古墳の文様をご覧いただくことができます。
また、比較資料として、日下氏が描かれた福岡県王塚古墳の壁画も合わせ展示しています。
ぜひ展示室で、佐賀が誇る装飾壁画古墳の美しい壁画と、日下氏の文化財に対する鑑識眼を感じて頂ければ幸いです。
(文責:当館学芸員 松尾 法博)