佐賀県立博物館|佐賀県立美術館

REPORT学芸員だより

【THIS IS SAGA ~鎌倉・室町時代編~】九州を襲った元寇と松浦党の活躍

2020年10月29日 展覧会

現在開催中の博物館50周年特別展「THIS IS SAGA」をより楽しく見ていただくために、ミュージアム・ダイアリーにて、旧石器・縄文時代から明治時代の展示内容について各時代の担当学芸員が紹介。
今回は、鎌倉・室町時代の展示内容からご紹介します。

九州を襲った元寇と松浦党の活躍

鎌倉時代の肥前において一番衝撃的な事件は、蒙古襲来でしょう。
文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2回にわたり、元(現在のモンゴルを中心として中国のほぼ全土を支配した帝国)の軍が日本に襲来。2回目の弘安の役の際は元軍が船を係留していた鷹島沖で台風にあい、やむなく撤退したことで知られます。
この時、肥前を含む北部九州一帯は、元軍を迎え撃つ最前線でした。

この状況を描いた資料が、本展にて展示中の『蒙古襲来絵詞摸本』です。宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている『蒙古襲来絵詞』原本は数多くの摸本に描きうつされ、現在に伝わります。今回はそのうち、九州大学附属図書館が所蔵する摸本をお借りして展示をしています。

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ここには、文永の役で鳥飼潟(とりかいがた、現在の福岡市早良区)の合戦において苦戦する肥後の御家人竹崎季長(たけざきすえなが)を肥前の御家人の白石通泰(しらいしみちやす)が加勢に来たところを描いています。後に、通泰は季長を頼って肥後に移り住みます。二人の友情はこうした戦禍においてさらに強固なものになったのかもしれません。

 この絵巻には、様々な武器や蒙古軍の姿が克明に描かれています。そのうち「てつはう」は内部に火薬や金属片などがいれられており、爆発するとその破片が周囲に飛び散るしかけになっている武器です。同じく鷹島沖から発見された蒙古軍の兜も、今回てつはうと一緒に展示しています。鷹島の海底に沈む元の船の映像とともにぜひお楽しみください。

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 元寇の際、異国調伏(元軍を追い払う)のために建てられたのが、東妙寺(吉野ヶ里町)です。東妙寺は大変な尊敬や信仰を集めて、元寇の恩賞をもらった武士たちはこぞってその土地を東妙寺に寄進したといいます。今回は東妙寺の創建当初からある釈迦如来像が展示されています。天皇の命令による勅願寺にふさわしく、当時もっとも腕が良いとされた慶派(けいは)の仏師によりつくられた像です。

 この元寇の時には、玄界灘沿岸で活動していた「松浦党(まつらとう)」も活躍しました。松浦党は平安時代よりその活動がみられ、豊臣秀吉の政権下にかけてまで活躍する武士の連合体です。多くの氏族から成り、松浦四十八党とも呼ばれました。松浦党の一族であった山代氏の記録『松浦山代家文書』には蒙古合戦の軍功に関するものが多く残されており、松浦党が文永・弘安の両方の役においてその最前線で活躍していたことがわかります。

 次の時代、元寇ののち鎌倉幕府が滅び、元も滅び中国の王朝が明に代わったころ、日本は室町幕府が明への外交・貿易を担いました。この貿易、日明貿易は明より許しを得て明の皇帝へ挨拶に行くという形をとっていました。松浦党の一族大嶋氏に伝わった文書をまとめた『来島文書(くるしまもんじょ)』には、この明へ行く船「遣明船」の警護にあたるようにという室町幕府の命令が所載されています。松浦党は長らく玄界灘海域を行き交っていた氏族であり、海のことを熟知していたためその役に任じられたと考えられます。また、松浦氏の一族である平戸松浦氏は、自らその遣明船に参加しようとしていたことが、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』にみられます。

 このように鎌倉・室町時代の肥前は、玄界灘を介して外国とつながる玄関地として、その存在が国際的にも重要視されていたことがわかります。日本において「外国」がほぼ中国・朝鮮半島といった東アジア(と一部東南アジア)であったこの時代、対外交流という観点でみると、肥前がそのど真ん中で主役として活躍したのがこの鎌倉・室町時代と言えるでしょう。

(文責 当館学芸員 立畠敦子)