【THIS IS SAGA ~桃山時代編~】必見!「肥前名護屋城図屏風」と「朝鮮軍陣図屏風」の本物が揃って見られる貴重な機会!
現在開催中の博物館50周年特別展「THIS IS SAGA」をより楽しく見ていただくために、ミュージアム・ダイアリーにて、旧石器・縄文時代から明治時代の展示内容について各時代の担当学芸員が紹介。
今回は、桃山時代の展示内容からご紹介します。
必見!「肥前名護屋城図屏風」と「朝鮮軍陣図屏風」の本物が揃って見られる貴重な機会!
佐賀県唐津市にある佐賀県立名護屋城博物館では、文永・弘安の役と肥前名護屋城にまつわる資料のうち、「肥前名護屋城図屏風」(同館蔵・佐賀県重要文化財)と「朝鮮軍陣図屏風」(公益財団法人鍋島報效会蔵)のレプリカが常設展示されています。
しかし、両図の本物が揃いで見られることは滅多にありません。
今回、佐賀県立博物館50周年特別展「THIS IS SAGA-2つの海が世界とつなぎ、佐賀をつくった-」に際し、名護屋城博物館と鍋島報效会の御協力により、両図の本物が一堂に展示される機会が実現しました。
「肥前名護屋城図屏風」は、当時人口約20万人以上と推定される大都市となった名護屋の様子を、同時代の画家である狩野光信が描いたと伝えられるものです。
秀吉の居城・大坂城に次ぐ巨大な規模を持っていた名護屋城を中心にして、周囲に各大名の陣屋や、多くの人やモノで賑わう城下町の様子を描き、当時の名護屋の繁栄ぶりを伝える作品です。
以前、画面内に描かれている人の数を数えた学芸員がいました。その学芸員によれば、なんと「485人」とのこと。私はまだ確認していませんが....。
もう一点の「朝鮮軍陣図屏風」については、この屏風の伝来に関する数奇な物語を本展図録内でエピソードとして紹介しています。以下に転載します。
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今に伝わる「朝鮮軍陣図屏風」~~鍋島勝茂五女長姫・鍋島直正・鍋島直大の縁で残る~~
慶長の役の終盤、1597~98(慶長2~3)年にあった蔚山城の戦いの様子を伝える公益財団法人鍋島報效会蔵の「朝鮮軍陣図屏風」3隻の伝世には、数奇な物語があった。
鍋島文庫『朝鮮御陣御屏風ニ付調子』によれば、「大木某」(大木喬任の先祖)が描いたもので、「元二双ノ御屏風」、つまり6曲(6枚つながり)屏風が4隻あったが、江戸時代前期に既に1隻が行方不明となり、3隻となった(大木某原図)。佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の五女長姫(永春院)が正室となった深溝松平家6代当主松平忠房が1669(寛文3)年に島原藩に転封となった後、長姫の縁で、島原藩によって朝鮮軍陣図屏風3隻が模写された(深溝松平家本)。
その後、嘉永期(1848~54)に江戸藩邸にあった大木某原図を、佐賀藩10代藩主鍋島直正の命で佐賀に運ばせ、側近の古川松根らによって模写図が作成された(古川模写本)。しかし、1874(明治7)年の佐賀の乱で、大木某原図、古川模写本のいずれも焼失した。
そこで、鍋島家当主(元佐賀藩11代藩主)鍋島直大は、1886(明治19)年に深溝松平家から模写図を借り受け、大久保雪堂(熊本人)に模写させた(大久保模写本)。
すなわち、現存する「朝鮮軍陣図屏風」3隻は、原図(大木某原図)の模写(深溝松平家本)の模写(大久保模写本)であるが、深溝松平家本が所在不明ということで、同図の歴史的価値は極めて高い。
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今回の特別展「THIS IS SAGA」は、この他にも必見の資料が盛りだくさんです。また、「佐賀の先人たちの進取と創造の姿」を学芸員が動画で御紹介したり、実際に展示場に立ってギャラリートークしたりで、魅力的にお伝えしています。
残りわずかな会期となりましたが、ぜひ「THIS IS SAGA!(これぞ佐賀)」「佐賀さいこう!」を見つけに、御来館ください。
(文責:当館副館長 浦川和也)