名護屋城博物館

展示案内EXHIBITION

黄金の茶室

黄金の茶室再び名護屋に

いま再び、名護屋に黄金の茶室がよみがえる

豊臣秀吉は、肥前名護屋の地に大陸への出兵拠点となる城を築き、全国の諸大名たちを集めて、まちをつくりました。
世界最大規模を誇った、7年間のみ存在した、人口20万人を超える幻の都市。
様々な人々が集い、文化が花開いた場所。
そこはまさに日本文化発展の「はじまりの地」。
名護屋城でも実際に披露された黄金の茶室は、この地に集った先人たちの想いや当時の息づかいを今に伝えてくれるものです。

肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財、名護屋城博物館蔵)

黄金の茶室

金銀の国内算出量が飛躍的に増大したこの時代、天下人・秀吉のもとには、莫大な富が集まりました。
秀吉の身の回りを彩った絢爛豪華な品々や大名・公家に金銀を配った「金賦り(かねくばり)」、大坂城・聚楽第そして名護屋城などを飾った豪華な金箔瓦や障壁画など、秀吉は美しく輝く黄金を効果的に使用しています。
そして、黄金に包まれたこの茶室も、天皇・公家や大名、そして宣教師や外国使節などに対し、政治・外交上の重要な場面で披露されました。
秀吉にとって、「黄金の茶室」は自らの権威と財力を見せつけ、見る者を圧倒する、とっておきの「舞台装置」だったといえるでしょう。

この茶室が初めて史料に登場するのは、秀吉が関白となった天正13(1585)年のこと。その後、京都の御所や大坂城などで使用されています。
そして天正20(1592)年、名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用しています。
博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が記した名護屋城での茶会の記録「宗湛日記」によると、茶室は三畳で、柱や敷居・鴨居や壁、障子の骨・板もすべて金、障子には赤い紋紗(紋を織り出した薄い絹布)が張られ、畳表は猩々緋(しょうじょうひ / 鮮やかな深紅色)だったと伝わっています。

横幅:2985mm
奥行:2839mm
高さ:1960mm

設計:早川正夫建築設計事務所

観覧料:無料